つけられ、学校中での寵児《ペット》だった。
ちょっと例のないほど寛大な心をもっていて、どんな意地悪をされてもニコニコ笑っているので、意地悪をするほうでつい兜をぬいでしまう。容易に感情を動かさず、たいへん忍耐強いので、ちょいと見ると内気なだけの娘のようだが、さすが長六閣下の血統だけあって、そうとう骨が硬く甘く見ていいかげんのことをすると、ギリギリのところでひどい目にあわなくてはならない。
四五年見ないうちに、すっかり立派なお嬢さんになってしまったが、率直なところだけは、一向子供のときと変らないとおもって、秋作氏はほほえましくなる。
秋作氏は、長六閣下の一家が、つましく暮らしていることをうすうす知っているので、ホテルのロビイでキャラコさんを見かけた時は、たぶん人ちがいなのだと思った。キャラコさんの説明で、沼間夫人が無理に誘ってきたことがわかったが、意外の感じは一向に減らなかった。沼間夫人が親戚《みうち》に優しくするなどということは、奇蹟でも起こらなければ有りえぬことだからである。
秋作氏が見ると、キャラコさんはたいへんな質素な服を着ている。質素なことには異存ないが、これでは槇子たちの小間使いぐらいにしか見えまい。無理にこんなところへ連れだしておいて、こんななりをさせて置く沼間夫人も沼間夫人だと腹がたってきた。なにしろ年ごろなのだから、こんな素直な娘でも、心の中ではやはり情けなく感じているだろうと思うと、秋作氏は急にキャラコさんが可哀想になってきた。このふうでは小遣いなんかも持ってないにちがいない。
秋作氏はキャラコさんの本当の気持を知らないものだから、槇子たちの組からはずれて、ここでしょんぼりしているのは、お小遣いがないせいなのだと曲解した。
「おい、お前、お小遣いがないんだね。それで、みなからはずれているんだろう。本当のことをいいなさい」
この質問は、キャラコさんを驚かす。
「あら、お金なら持っていますわ。お父さまからいただいてきましたから……」
秋作氏は、疑わしそうな顔つきで、
「ふうん、いくら?」
キャラコさんが誇らしそうにこたえた。
「三円!」
こんどは秋作氏のほうがあっけにとられる。この贅沢なホテルで半月も暮らそうというのに、たった三円のお小遣い。
秋作氏は、思わず大きな声をだす。
「三円!」
秋作氏がなぜそんなに驚くのか、キャラコさんにはわからない。
「それも、まだ手つかずですわ。叔母さまのお伴だから、お金なんかちっともいらないの」
「では、あいつ、小遣いもくれるのか」
「いいえ。……だって、あたし、持っていますもの」
「お菓子を喰べにゆくとき、誰れが払うの」
「お菓子なんか、喰べに行きませんわ」
秋作氏は、あきれてキャラコさんを見つめる。
「ここへ来てから、まだ一度も?」
「和爾《わに》さんたちに招待されたとき、たった一度」
「それで?」
「それで、って?」
「何かほしいものがある時はどうするんだ」
「ほしいものなんか、何もありませんわ」
「ふむ、それで、その三円がいままでちゃんと残っているんだね」
「ええ、そうよ。……自分のたのしみに使うのに、三円なんてお小遣いをいただいたのはこれが始めてなの。だから、どう使っていいかわからないの」
長六閣下の子女教育がこんなに行き届いたものだとは、さすがに今日まで知らなかった。きまった恩給だけでやってゆくにはこういう方針をとるのもやむを得ぬことなのであろう。今となってみれば、一年に一度のクリスマスに、あんな役にも立たぬとぼけた贈物《おくりもの》をしたことが悔《くや》まれる。こうと知っていたら、お小遣いをやって喜ばせることもできたのに。
秋作氏は、また誤解した。長六閣下がやろうといっても、キャラコさんは受け取らない。楽しみのための金の使い方というものを、キャラコさんはまるっきり知らないのである。
秋作氏は、財布から三十円だけぬきだしながら、
「そうだ、その三円は使わずにとって置くほうがいい。そのかわり、秋作がこれだけやるから、これで、みなと一緒に遊びなさい」
(秋作氏は、あたしがけちなんだと思っている)
キャラコさんは、すこし真面目な顔つきになる。
「有難う。……でも、それいらないの。欲しい時があったらくださいっていいますわ。きっといいますから、今日はいらないの。……じゃ、本当のことをいいますけど、あたし、なぜマキちゃんたちの組と一緒にお茶を飲みに行かないかといえば、お菓子なんかにお金を使うのはいやだし、親でも兄弟でもないひとに払わせるってこともあまり気にいらないからなの。……わかるでしょう? マキちゃんたら、いつもワニさんや越智《おち》さんやアシ君に払わせるの。いちどだって自分で払ったことないの。だから、あたし、行かないのよ」
秋作氏は、妙な咳ばらいをした。秋作氏は、親類でも奥さんでもないお嬢さんに、すっかり払わせて、このホテルに滞在しているのである。
四
たった一人きりになると、キャラコさんは走るようにピアノのそばへゆき、鍵盤に指を触れるが早いか、自分の弾く曲に夢中になってしまった。
正式に先生についたことはないが、ピアノは自己流でかなり達者に弾き、よく響く中音《メディアム》で上手に唄う。たいていありふれた平俗な曲がおもだが、時には即興で出まかせに唄うこともある。しかし、そのつまらぬ曲もキャラコさんがうたうと、まるで趣きのちがった味の深いものになってしまう。
大勢の前で唄ったことなど一度もないので、誰もそんなことは知らない。キャラコさん自身もてんで気がついていない。
ただ、長六閣下だけは、ぼんやりとその才能に感づいて、
「お前の唄には、なにか精神のごたるもんがある」
と、批評した。
ただの一度も音楽家になろうなどと考えたこともなければ、ひとに聴かしてほめられたいなどと考えたこともない。キャラコさんの場合、唱歌は一種の迸出作用で、小鳥における囀《さえずり》のようなものだといえよう。
三時ごろに、給仕が新聞をとりに入ってきただけで、ここのキャラコさんは完全に孤独だった。キャラコさんは誰に聴かれることなく、たれに妨げられることもなしに、知っているだけの唄をみな唄った。
自分の家へ帰ったような気がして夢中になって唄いつづけているうちに、ふと、うしろで人のけはいがするので振りかえってみると、入口に近い椅子に『キャラコさんの恋人』が遠慮深く掛けていた。
今日はいつもより顔の色が悪く、レース編みのきたない襟飾《ネクタイ》を紐のように顎《あご》の下へたらし、何を詰め込んだのか、すり切れた上着のポケットを、みっともなく膨《ふく》らましている。
キャラコさんがうしろをふり向いたのを見ると、『恋人』は悲しげに見えるほどな慇懃《いんぎん》な顔つきで、
「こんな汚いやつが、ここにいては、お目ざわりでしょうか」
といった。
あまり、『恋人』のようすが気の毒なので、キャラコさんは胸がいっぱいになってきて、ピアノから離れて、『恋人』のそばへいってすわった。
「あら、どうしてでしょう。あたし、あなたを汚いなどと思ったことありませんことよ。また、ダームでもして遊びましょうか。……もし、おいやでなかったら」
『恋人』は手の甲のうえへ垂れさがってくる長すぎる袖を、しょっちゅう気にしてたくしあげながら、
「……わたくしを、汚いやつだの、乞食だのといわないのは、ほんとうにあなただけです。わたくしは、いやしめられることには馴れていますから、なんといわれたって格別気にも止めません。しかし、あなたのご親切は……」
急に眼を伏せて、口ごもり、
「ありがたく思っています。……生涯、忘れませんでしょう」
といって、すこしうるんだ、感謝にみちた眼差しでキャラコさんをみつめた。
キャラコさんは、こんなふうに丁寧な挨拶をされたので、すっかり面くらって、
「あら、あんなことが親切なんでしょうか。……おはよう、ってご挨拶をしたり、二度ばかりダームをしただけでしょう」
「それが親切なのです。……とりわけ、わたくしのようなものにしてくださるときは」
キャラコさんが、笑いだす。
「そんなのが親切なら、いつでも!」
『恋人』は、しばらく沈黙したのち、とつぜん、こんなことをいう。
「ご親切にあまえるようですが、ひとつ、おねがいがあります」
キャラコさんはすこしかんがえてから、キッと口を結んで決意のほどを示しながら、強くうなずいた。
「あたしにできることでしたら、どんな事でも!」
キャラコさんのひどくきまじめな顔を見ると、『恋人』は皮肉とも見える微笑をうかべながら、
「いや、そんなむずかしいことではありません。……わたくしに歌を唄ってきかせていただきたいのです」
「あら、そんなことでしたの。……でも、あたし、まずいのよ。まだ、いちども本式に習ったことがないんですから。……自己流のでたらめなの」
『恋人』は、首をふって、
「どうして!……いま、あそこでうかがっていましたが、あなたのような見事な中音《メディアム》は、日本ではそうざらに聴けるものではありません。……最初は、自分の耳が信じられなかったくらいでした」
キャラコさんは、自分の唄がひとにほめられたことなどはいちどもなかったので、真赤になってしまった。
「おやおや、たいへんだ」
『恋人』は強くうなずいて、
「いえ、ほんとうのことです。実際、めずらしい声をもっていられる」
「では、唄いますわ。その、見事な『中音《メディアム》』で! ……でも、あたしの知っている歌でなくては困るのよ。……どんな歌? ごく新しいタイプの歌?」
「いや、わたくしはモダーン・タイプはきらいです。……もしか、あなたは、小学唱歌の『冬の円居《まどい》』というのをご存じでしょうか」
長六閣下が知っている唱歌というのは『冬の円居』と『黄海の海戦』の二つだけなので、キャラコさんは子守唄のかわりに『冬の円居』を聴いて育ったようなものだった。
「ええ、知っていますわ」
『恋人』は眼を輝かせて、
「やっぱり!……あなたなら、きっと知っていらっしゃるだろうと思った。……では、どうぞ唄ってきかせてください」
キャラコさんは『恋人』の手をひいてピアノのそばへすわらせ、自分が伴奏を弾きながら美しい声で『冬の円居』を唄いだした。
『恋人』は両手で顔をおおって熱心にきいていたが、キャラコさんが唄い終ると、顔をあげて低い声でつぶやいた。
「なつかしい唄だ!」
しなびた頬に血の色がさし、青年のような生き生きとした顔つきになっていた。『恋人』は、丁寧に頭をさげて、
「これで満足です。どうも、ありがとう。……もうご勉強のお邪魔をいたしますまい。……それはそうと、あなたはまだずっとこのホテルにおいでですか」
キャラコさんは、あわてて首をふる。
「いいえ、もう四五日で帰ります。……こんなところにいるより、家《うち》にいるほうがずっと楽しいわ。ホテル住まいだの、贅沢な暮らしなんか、あたしの趣味ではありませんの」
『恋人』は、妙な眼つきでキャラコさんをみつめながら、
「ほう、どんなのが、あなたの趣味?」
「さあ、どういったらいいかしら、……うまくいえませんけど普通の、きちんとした生活では、同じ時間に、同じことをしますわね。古い、同じ友達にあったり……」
「それは、どういう意味です。……よくわかりませんが……」
「困ったわね……」
キャラコさんは、かんがえながら、綿密に話す。
「あたし、じぶんの家ではこんなふうにやっていますの。……きちんとした時間割をつくって、その中でお仕事をしたり、考えたり、本を読んだり。……それから、きまった日に仲のいいわずかばかりのお友達と訪ねあったり……。ところが、ここへ来てからは何もかもすっかり変ってしまいました。ここでは、ひとりで散歩をしたり、自分だけの考えにふけったりしてはいけないんです。編物をすることも、本を読むことも、あまり大きな声で笑うこともできないの。……何もせずに、膝に手を置いて、こんな顔をしてほほえんでいなくてはなりませ
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