ような声で、
「いや、まったく……。まるで、オペラですな」
と、意味のないことをいった。せいいっぱいの智慧をしぼったところである。
猪股氏はこのごろのモダーン・タイプのお嬢さんが大好きだ。後妻《のちぞえ》にはぜひともそういうピチピチしたお嬢さんをもらいたいつもりなのだ、そういうお嬢さんたちに気にいるようなしゃれたことをいってみたいのである。
槇子は気どったポーズをつくりながら、つづいて、『あたしはあなたに夢中なの』というジャズ・ソングを唄いだそうとしていたが、猪股氏の讃辞をきくと、
「うへえ、いけねえ。……オペラだっていいやがる」
と、いまいましそうに叫ぶと、ツイとピアノを離れ、揺椅子《ロッキング・チェア》のなかへ乱暴に仰向けにひっくりかえって、不機嫌そうに黙りこんでしまった。
槇子は今年二十三だ。眼も鼻も大きくて、なるほど器量はいいが、あまりととのいすぎてとっつきにくい顔だちである。髪をウェーヴぬきのロング・カットにしている。パーマネントの流行《はやり》と逆にいったところが味噌《みそ》なのだが、それにしても、濡れた着物のようにピッタリと皮膚にまといついた、ジュニヤ好みのプリンセス型のドレスとよくうつって、なかなか凄艶《せいえん》な感じに見せる。
槇子は揺椅子《ロッキング・チェア》のうえでうるさく身体《からだ》を揺すりながら、じろじろと猪股氏を見すえていたが、だしぬけに、
「猪股さん、あなた、お昼寝はどう? もう、そんな時間じゃないこと?」
と、いじめにかかる。待ってましたというように、一座がどっと笑いだす。
剛子が、そっと猪股氏の方へふりかえって見ると、猪股氏は熟したトマトのようにまっ赤になって、身のおきどころもないように恐縮している。気の毒になってなにかいってやりたいと思ったが、それをするとまた大騒動になるにきまっているので、いままで伴奏をしていたピアノの椅子から立ちあがって、社交室のずっと隅のほうへひきさがってしまった。
午後の陽ざしが窓からいっぱいに流れこみ、派手な絨氈や気どった家具をあかるくうきたたせる。煖房《スチーム》でほどよく暖められた社交室のなかは、うっとりするほど暖かい。窓べには冬薔薇やカーネーションが大きな花をひらき、ここばかりは、常春《とこはる》のようななごやかさである。
この社交室に、いま十人ほどの顔が見える。土曜日になると、泊りがけのゴルファーがきて、新しい顔が加わるが、今日は土曜日でも日曜日でもないので、ここにいるのは見なれた顔ばかりだ。それぞれ勝手なところへ椅子をもちだし、それぞれ自由な恰好でかけている。
いま紹介したひとたちのほかに、剛子の従兄《いとこ》の秋作氏がすっかりこちらへ背中をみせ、窓のそばで新聞を読んでいる。槇子の隣りの揺椅子《ロッキング・チェア》には、妹の麻耶子が、いつもするとおり斜めに腰をかけ、左手を顔にあてて傾けながら、小指は気どったようすで唇の方へまげている。
姉の槇子よりは二つしたの二十一で、姉ほど美しくはないが、そのかわり、もっと底意地のわるい顔をしている。年よりは老《ふ》けた沈んだ色のウールのブラウスをきて、まるでこの場の空気になんの関係もないといったような冷淡な態度をとっている。じろじろ観察するだけで、めったに自分の意見を出さないのがこの娘の癖なのである。
ピアノの横の方には、槇子たちの取巻きの一団、――パイプをくゆらしているワニ君。顎《あご》のニキビをひねくっているポン君。長い脛《すね》をもちあつかって足を組んだりほぐしたりしているアシ君。こういった連中がひとかたまりになっている。いずれも金持ののらくら息子。ダンスとゴルフとドライヴ、この三つのヴァライエティだけが生活の全部で、槇子姉妹《まきこきょうだい》に奴隷のように頤使《いし》されるのをたいへん光栄に存じている。ところで、この社交室に欠かしたことのない沼間夫人の顔が見えないのは、たぶんお散歩の時間にあたるからであろう。
こんなとこにまごまごしていないで、はやく逃げ出せばいいのにと、剛子がやきもきしているのに、猪股氏のほうは立ちあがることも忘れたように、見るもあわれにしおれかえっている。
いつまでたっても猪股氏が動かないので、槇子はすっかりじれてしまい、いきなり揺椅子《ロッキング・チェア》から飛び起きると、
「じゃァ、こっちが逃げだそうッと……。あたしは、これから着がえをするから、見たい奴はついておいで」
ワニ君と、ポン君と、アシ君が先を争って立ちあがる。
「僕」
「ぼくもゆく」
「ぼく」
越智氏が中腰になって、あわててひきとめる。
「散歩なんぞいいじゃありませんか。なにか、もうひとつうたってくださいよ」
槇子は、いましがた社交室へはいってきた老人を露骨に指さしながら、
「あなただけでもうんざりなのに、ほら、また、あのきたないやつがはいってきた。……ごめんだわ。おもしろくもねえから、クラブ・ハウスにでも騒ぎに行くんだ」
と、みな一緒にどやどやと出て行ってしまった。
それは、みすぼらしいほどの粗末な服をきた、六十ぐらいの大柄な老人で、髪はまだ半白《はんぱく》だが、顔には八重《やえ》の皺の波がより、意地の悪そうな陰気な眼つきをし、薄い唇のはしにいつも皮肉な微笑をうかべている。
三階の隅の陽あたりのわるい小さな室《へや》にひとりで住んでいて、食事のほかにはめったに降りて来ない。だれも名を知らず、どういう素性の老人なのか、それもまるっきりわからない。
とにかく、不思議な老人である。『社交室』ではこの老人がしばしば問題になった。たぶんホテルの持主の親類かなにかだろう。さもなければ、あんな乞食のような老人をのさばらしておくはずはない。それにしても眼ざわりでしようがないから、支配人にかけあって追っぱらってしまおうということに意見が一致したが、先にたって交渉にゆくものもなく、うやむやになってしまったが、だれもいやがって、この老人が入ってくると、きこえよがしに舌うちしたり、おおげさに眉《まゆ》をしかめたりする。
ところで、剛子は、その老人をみすぼらしいとも思わないし、かくべつ気味がわるいとも思わない。どうしてみながそんなにいやがるのかそのわけがわからない。
剛子には、この老人がなにかたいへんな不幸にあったひとのように考えられ、自分のできることならどんなことでもして慰めてあげたいと思って、老人がサン・ルームの片隅などで淋しそうに坐っているのを見るとやさしく言葉をかけたり、ダームの相手になってやったりした。
すこし陰気だが、話してみると、教養のある奥ゆかしいところがあって、剛子にすれば、社交室のとりとめのない男たちとよりは、この老人と一緒にいるほうがむしろ楽しいくらいだった。
こんなことで、この老人に、いつの間にか、『キャラコさんの恋人』というひとのわるい綽名《あだな》がつけられるようになった。
三
槇子たちの組がおお騒ぎをしながら出て行ったあと、いつの間にか、『キャラコさんの恋人』も猪股氏もいなくなって、広い社交室の中にキャラコと従兄《いとこ》の秋作氏の二人だけがポツンと残されることになった。
部屋のなかは急にヒッソリとなって、今まできこえなかった小鳥の声がのどかにひびいてくる。
秋作氏は窓ぎわの椅子にかけ、いぜんとしてこちらへ背中を向けたまま、塑像《そぞう》のように微動もしない。キャラコさんは秋作氏のたくましい肩をながめながら、よくあんなに動かないでいられるもんだと思って、急におかしくなって、もうすこしで笑いだすところだった。
(小供が意地っ張りをしているような恰好ね。なにをあんなに考え込んでいるのかしら。……たぶん『黒いお嬢さん』と喧嘩でもしたんだわ)
秋作氏は長六閣下|末弟《ばってい》の子で、従って槇子たち同様、キャラコにとっても従兄《いとこ》にあたる。早くから両親《ふたおや》をなくして、苦労しながら絵の勉強をしている。沼間夫人いうところの『乞食画かき』である。
秋作氏は、銀行家の沼間氏も、虚栄坊《みえぼう》の夫人も二人ながらだいきらいで、沼間夫妻をいつもあいつら[#「あいつら」に傍点]という代名詞で呼んでいる。しかし、槇子だけは好きだったとみえ、昨年の秋ごろ、槇子をもらいたいとたいへん熱心にたのみこんだが、アッサリとはねつけられてしまった。それまではずいぶん仲よくしていた槇子だが、その話になると、手のひらをかえすように、
「あなた、貧乏だから、いや」
と、はっきりしすぎるくらいはっきりと断わった。
秋作氏が知っていた槇子は、すくなくとも、こんな了見の狭い娘ではなかったはずだったが、論より証拠で、やはり自分の計量ちがいだったと思うよりほかはなかった。
しかし、あまりな返事なので秋作氏も不愉快になり、槇子に、貴様《きさま》はクソみたいなやつだぞ、とひどいことをいったということを、あとでキャラコさんがきいた。
秋作氏はそれっきり沼間氏の一族と交渉を絶《た》ってしまった。腹を立て、飲んだくれて歩いているという評判もあったが、その秋作氏が、つい二日前、卅二三の、すこし薹《とう》のたったお嬢さんと二人でフラリとこのホテルへやって来て沼間夫人を驚かした。
そのお嬢さんは、へんに煤黒い、ひどい斜視《すがめ》の、棒を嚥《の》んだようなヌーッとした感じのひとで、眉目秀麗な秋作氏と並ぶと、一種、対照の妙を示すのだった。『社交室』の特報によれば、たいへんな持参金がついているので、名古屋の上流では誰ひとり知らぬものもない有名なお嬢さんだということだった。
秋作さんが、この『黒いお嬢さん』と二人で食堂へはいってきたとき、沼間の一族もそこにいた。しかし、槇子は、この二人づれを見てもなんの反応も示さなかったし、秋作氏のほうもチラリと見かえったきりで、一向顔色も動かさずにずんずん奥のテーブルのほうへ行ってしまった。二人ながらあまりさっぱりしているので、キャラコのほうがかえって驚いたくらいだった。
秋作氏は、もう四五年、長六閣下のところへやって来ないが、毎年クリスマスになると、かならず、とぼけた玩具《おもちゃ》や小さな人形をキャラコさんに送ってよこした。みな粗末なものだったけれども、キャラコさんはうれしかった。長六閣下も、あまり気立てが優《やさ》しすぎる、しょせん、軍人にはなれんやつじゃ、といっている。その秋作氏としては、ちと、どうかと思うやりかたなのである。
秋作氏が、やっと身動きする。のびをして、もの臭《ぐさ》そうに椅子から立ちあがった。
静かにしていたので、ここにキャラコがいることに気がつかなかったらしい。びっくりしたように、遠くからまじまじと眺めてから、大股で歩いて来てキャラコさんの前に突ったった。
(秋作氏は美しいな)
下から仰ぎながら、キャラコさんは、そう思う。
秋作氏は今年三十三になる。スラリとした美しいフォルム。喰いつきたいほど形のいい腰。切れの長い鋭い眼。顔は浅黒くひきしまっていて、いかにも理智的な、俊敏な風貌だ。
「おい、どうしてこんなところにいる」
「あたし、ひとりのほうがいい」
「妙なやつだな。みなお茶を飲みに行ったぞ」
「お茶なんか、飲みたくない。……誰もいなくなったら、ひとりでピアノをひいて遊ぶつもりなの」
「ふうん、では、おれの出て行くのを待ってたのか」
キャラコさんは、正直なところを、いう。
「ええ、そうなの」
秋作氏は、てらい気のない、素直なこの従妹《いとこ》がだいすきだった。小さい時から、親切で、謙譲《ひかえめ》で、誰からでも愛される不思議な徳を持っていた。ほかの子供なら、ずいぶん憎らしくきこえそうなことでも、この娘がいうと妙に愛嬌になるのだった。
誰をも好き、誰にでも愛想がいいが、そのくせ、粗忽《そこつ》に知己をつくらぬしっかりしたところがあり、理解力と感受性が豊かで、どんな物事に対しても妥当な判断を誤まらず、何に対しても極めて穏健な意見をはいた。女学校時代には『常識《コンモン》さん』という綽名《あだな》を
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