ある恩給だけでたいへんつつましく暮らしているが、剛子がキャラコの下着《シュミーズ》をきているのは、それには関係がなく、もっと深い感情のこもったことなのである。
二
槇子《まきこ》が、胸のうえに手を組みあわせ、グレース・ムーアのように気取りながら唄い終ると、
「おお、|美事です《シャルマン》!」
と、感にたえたような声をあげたのが、越智《おち》氏である。
越智男爵の三男で、このホテル中でだいいちの洒落《しゃれ》者といわれるだけあって、さすがにすきのない身ごしらえだ。生地はウーステッドのストライプもの。ラベルをロング・ターンにし、よくこれで息ができると思われるくらい胴をしぼってあるので、うしろから見ると、蜂のような腰つきに見える。
三十を三つも越しているのに、なにをするでもなくのらくらとこんなところで日を送っている。もっとも、越智氏にとっては、これがだいじな仕事だともいえる。できるだけ社交界にしゃしゃり出て、金持の養子のくちにありつこうとしているのである。努力のかいあって、いままで二つ三つそういう口があったが、いつの間にかたち消えになってしまったのは、たぶん汚《きたな》
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