ない。
「笑うのは下等よ。もっとも、あなたのは特別だけど。……口をしめなさい奥歯が風邪をひく」
 剛子は、奥歯が風邪をひかぬように、あわてて掌で口をおさえる。
 剛子は退役陸軍少将石井長六閣下の末娘で、今年十九になる。しかし、笑ったり跳ねたりしているときは、十七ぐらいにしか見えない。
 剛子《つよこ》とは妙な名前だが、これは剛情の剛ではない。質実剛健の剛である。長六閣下は、これからの女性は男のいいなりになるようなヘナヘナではいかん。竹のようにしなやかで、かつ、剛健な意志をもたねばならぬという意見で、それで剛子と名づけた。剛子は父の望みを嘱《しょく》されているのである。
 剛子が自分の名をいうと、相手は、かならず聞き違えて、
「ああ、露子さんですか」
 という。すると、剛子は、
「つゆではありません、剛よ」
 と、丁寧に訂正する。父の希望のこもった大切《だいじ》な名を間違われるのはいやだからだ。つゆ子なんて名は、なにか病み細って、蒼い顔をしてうつむいている女の姿を連想させる。剛子はそんななよなよした女性は嫌いなのである。
 剛子には、もうひとつ、「キャラ子さん」という名前がある。
「キャ
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