長い間海面の下に沈み込んでいたが、最後の勇気をふるい起こしたのだろう、槇子を抱えながら漁船へ向って泳ぎ出した。
 見るさえ苦痛な十分間だった。……しかし、漁船はとうとう『恋人』のそばまで漕ぎ寄った。
 岸の一同は、期せずして、
「万歳!」
 と、叫んだ。
 船の上の漁夫たちは、槇子と『恋人』の手をつかんで船にひきあげた。
 キャラコさんは足がガクガクして立っていられなくなって、そこへしゃがみ込んでしまった。そして、はじめて涙を流した。

 望遠鏡で熱心に漁船の中をのぞき込んでいた山田氏がワニ君にたずねた。
「あの人は誰だか、知っていますか」
「ホテルに泊っている山本というひとです」
 これをきくと、山田氏が飛び上った。そして、呻くようにいった。
「やはり、そうだった。……あれは、ジョージ・ヤマだぜ。君、知ってたかね?」
 こんどは、ワニ君が飛び上った。
「ジョージ・ヤマ!……亜米利加《アメリカ》で成功した千万長者!……小供の時に、新聞で評伝を読んだことがあります。しかし、ずいぶん昔のことですよ」
「そう。……すべての事業から手をひいて欧州へ行ってしまったのは、ざっと十五年ほど前のことだ
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