コさんは、槇子の意地悪も我儘もみな忘れてしまった。
「どうか、助かってちょうだい」
この瞬間、キャラコさんは、父よりも、母よりも、兄弟よりも、槇子の方が好きだったような気がした。
人々は、埓もなく、
「早く、舟を出せ」
「ホテルのモーター・ボートはどうした」
などと叫びながら、ウロウロと渚を走り廻るばかりで、とっさに、どうしようかんがえも浮んで来ないのだった。
なにしろ、一月のことだから、ホテルのモーター・ボートは格納庫の中に納《しま》われていて、ちょっとやそっとで引きだすわけにはゆかない。この上は漁船を出すよりほかはないので、ホテルの庭番《にわばん》がそっちへ駈けだしていったが、ここからいちばん近い漁師の家まで約十五町もある。
人垣の向うで、何か劇《はげ》しくいいあう声がするので、キャラコさんがそのほうをふり返って見ると、『恋人』が、いま大急ぎで服を脱ごうとしているところだった。ガヤガヤはそれを必死に押し止めようとする人々の声だった。
この荒れ狂う海の中へ、このよぼけた老人が躍り込もうというのは、たしかに、正気の沙汰ではなかった。
息をつめているうちに、『恋人』は素早く
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