ことだった。
キャラコさんが入ってきた時には、この部屋には誰もいなかった。キャラコさんは冗談に、『休憩室』と呼んでいるピアノのうしろの狭い三角形の隙間へはいり込んで、いつものように『コロンバ』のつづきを読んでいると、ワニ君の一団がドヤドヤと飛び込んで来て、いきなり話をはじめたので、いまさら出ることもできず、息をひそめて竦《すく》んでいるほかはなかった。
沼間家が一文なしになったことも、沼間夫人の遠謀も、猪股氏と槇子の婚約も、みな、意外なことばかりだったが、そうとなると、叔母が、なぜ自分を無理にこんなホテルへ誘って来たか、その目的がはじめてはっきりと了解できた。この競売《オークション》を一層効果的にするために、時局|柄《がら》、光栄ある石井長六閣下の愛嬢を、近親として手元にひきつけておく必要があったのだ。
キャラコさんはまだ一度も槇子たちの身分をうらやんだことはない。反対に、不幸だとさえ思っていたが、その不幸は、キャラコさんが考えていたよりも、もっとひどいものだった。
しかし、槇子のほうは、愛情より真実より金の方が大切な娘なのだから、こういう身売りを格別不幸だとも思っていまい。
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