新聞をとりに入ってきただけで、ここのキャラコさんは完全に孤独だった。キャラコさんは誰に聴かれることなく、たれに妨げられることもなしに、知っているだけの唄をみな唄った。
自分の家へ帰ったような気がして夢中になって唄いつづけているうちに、ふと、うしろで人のけはいがするので振りかえってみると、入口に近い椅子に『キャラコさんの恋人』が遠慮深く掛けていた。
今日はいつもより顔の色が悪く、レース編みのきたない襟飾《ネクタイ》を紐のように顎《あご》の下へたらし、何を詰め込んだのか、すり切れた上着のポケットを、みっともなく膨《ふく》らましている。
キャラコさんがうしろをふり向いたのを見ると、『恋人』は悲しげに見えるほどな慇懃《いんぎん》な顔つきで、
「こんな汚いやつが、ここにいては、お目ざわりでしょうか」
といった。
あまり、『恋人』のようすが気の毒なので、キャラコさんは胸がいっぱいになってきて、ピアノから離れて、『恋人』のそばへいってすわった。
「あら、どうしてでしょう。あたし、あなたを汚いなどと思ったことありませんことよ。また、ダームでもして遊びましょうか。……もし、おいやでなかったら
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