らいをした。秋作氏は、親類でも奥さんでもないお嬢さんに、すっかり払わせて、このホテルに滞在しているのである。

     四
 たった一人きりになると、キャラコさんは走るようにピアノのそばへゆき、鍵盤に指を触れるが早いか、自分の弾く曲に夢中になってしまった。
 正式に先生についたことはないが、ピアノは自己流でかなり達者に弾き、よく響く中音《メディアム》で上手に唄う。たいていありふれた平俗な曲がおもだが、時には即興で出まかせに唄うこともある。しかし、そのつまらぬ曲もキャラコさんがうたうと、まるで趣きのちがった味の深いものになってしまう。
 大勢の前で唄ったことなど一度もないので、誰もそんなことは知らない。キャラコさん自身もてんで気がついていない。
 ただ、長六閣下だけは、ぼんやりとその才能に感づいて、
「お前の唄には、なにか精神のごたるもんがある」
 と、批評した。
 ただの一度も音楽家になろうなどと考えたこともなければ、ひとに聴かしてほめられたいなどと考えたこともない。キャラコさんの場合、唱歌は一種の迸出作用で、小鳥における囀《さえずり》のようなものだといえよう。
 三時ごろに、給仕が
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