のそばに、ニュウ・スタイルの三面鏡と、弧になった大きな化粧台がつくりつけになり、そのうえに、美しい面差をしたひとの写真が、ひっそりと乗っていた。
カオルは庭にむいた扉をあけて、手のこんだガラスの風除《かざよ》けのついた、ヴェランダのようなところを見せた。
「この外気室、ホンモノよ……秋川夫人が、ここで五年ばかり闘病していたんだけど、ダメだったの……秋川夫人、絶滅の場よ。すごいみたいでしょ」
おだやかな秋の夕日のさしこむ、ひろすぎるおもむきの部屋は、もの悲しいほどキチンとかたづいていて、すごいというような感じは、どこにもなかった。
「しずかすぎて、うっとりするわ」
サト子が、そういうと、カオルは、はげしい身振りで、さえぎった。
「そういう意味じゃないのよ……見てごらんなさい、この行き届きかた……秋川は、病妻のために、サナトリアムをひとつ、建てるくらいの意気ごみだったそうよ」
そう言えば、似たところもあるような秋川夫人の写真をながめながら、サト子は感慨をこめて、つぶやいた。
「大切にされた方だったのね」
カオルは、鼻で笑って、
「秋川には、死んだ細君は永遠の女性で、愛一郎にとっては、貞潔のマリアなの……部屋を死んだときのままにしておいて、親子でときどきやってきて、追憶にふけるというわけ……聖家族のイミテーションよ。古めかしくて、鼻もちならないわ」
棚のケースからヴァイオリンをだして、
「これも、お遺品《かたみ》のひとつなの……ヴァイオリンなんか、さわる気にもなれないけど、おこらせるために、わざと弾《ひ》いてやるの……見ていらっしゃい。愛一郎、また飛んでくるわ」
そう言うと、弾きだす前のポーズをとりながら、サト子のほうへ振り返った。
「この曲、知っている? エリク・サティ……音楽の伝統と形式をコナゴナにした、偉大なふたりのキチガイのうちのひとり……」
カオルは、はだしで部屋のなかを歩きまわりながら、リズムも音節も無視した無形式の楽句を、ぞっとするようないい音色で弾きだした。
しばらくは、弾くことだけに熱中していたが、そのうちに、気が変ったらしく、勝手に調子をかえたり、楽節を飛ばしたり、おしまいのほうをめちゃめちゃにして、投げるようにヴァイオリンをおくと、うつ伏せにベッドに倒れて、それっきり動かなくなった。
サト子は不安になって、カオルの背に、そっと手をおいた。
「どうしたのよ、カオルさん……ねえ、どうしたの」
カオルは頭をあげると、心の芯《しん》が抜けたような顔でニヤリと笑った。
「……あたし、長いあいだ秋川の細君の亡霊と格闘していたのよ……この家へ来るのは、そいつと喧嘩するためだったの。七年も八年も、死んだひとのことばかり思いつめているなんて、なんのことでしょう? 生きて動く女が、ここにひとりいるのに、秋川ったら、振り返って見ようともしないのよ……細君が死ぬまで貞潔だったと信じこんでいることも、あたしには面白くないの……北鎌倉や扇ヶ谷のひとたちだって、神月の別荘へやってきたことがあるんだから」
愛一郎が、ただの空巣でなかったことは、サト子にもわかっていた。愛一郎が久慈という家の留守にはいりこんだのは、神月か、愛一郎の死んだ母に関係のあることではなかったのか。
「飯島の久慈さんっていう家、ごぞんじ?」
「久慈って、神月の別荘のあとへはいったひとでしょう。それが、どうしたというの?」
深入りしそうになったので、サト子は、あわててハグラかしにかかった。
「それにしても、古い話だわねえ……神月さん、いま、なにをしていらっしゃるのかしら?」
「ずいぶん年をとったけど、むかしどおりの粋人《キャラント》よ……追放解除になったあと、することがないもんだから、渋谷の松濤《しょうとう》の大きな邸《やしき》でショボンとしているわ。秋川が、毎月、生活費を送っているの」
「秋川さん、神月と親戚なの?」
カオルは、底意のある皮肉めかした口調で、
「親戚?……ふふ、ある意味ではね……細君が死んでから、秋川は事業から手をひいてしまったけど、手元に動かせる金を持っていることでは、日本一でしょう。神月としては、秋川の友情にたよるほか、生きる道はないんだから、どうされたって、離れないつもりでいるらしいわ」
サト子が階下《した》の客間へ戻ると、カオルもついてきて、向きあうソファにおさまった。
近くの山隈《やまくま》で、うるさいほど小寿鶏《こじゅけい》が鳴く。風が出て雲が流れ、部屋のなかが、急にたそがれてきた。美術館を出るとき、鎌倉署の中村に顔を見られたことを、ひと言、愛一郎に注意してやりたかったが、そうしてみたって、どうなるものでもなかった。
「あたし、おいとましようかな。いずれお伺いしますから、そのとき、またゆっくり……」
カオルは、隙《すき》のない顔になって、
「でも、きょう、重大な用談があって、いらしたんでしょう?」
「用なんか、ないのよ。なんということもなく、ちょっとお寄りしただけ……」
カオルは、せんさくする目つきで、サト子の顔色をさぐりながら、
「あたしに、そんな挨拶をなさるのは、ムダよ。苗木のウラニウム鉱山の話なら、よく知ってるから……四日ほど前、パーマーや芳夫なんかといっしょに、熱海ホテルで、叔母さまにお逢いしたわ。坂田省吾という青年にも……」
坂田省吾というのは、荻窪や阿佐ヶ谷のへんを清浄野菜を売って歩く、色の黒い朴訥《ぼくとつ》な青年で、去年の夏ごろからの馴染みだった。忘れたころに不意にやってきて、サト子が借りている植木屋の離家の前で牛車をとめ、縁に掛けて、半日ぐらいも話しこんでいく。
カオルが熱海で叔母に逢ったのは、ふしぎはないが、木の根っ子のようなモッサリした坂田青年が、熱海ホテルなどにあらわれるとは、考えられもしないことだった。
「坂田省吾って、青梅《おうめ》の奥で清浄野菜をやっている、あの坂田省吾のことかしら」
「ええ、そうよ。苗木の谷の鉱業権を買ったという、坂田省吾のことよ。きょう、あなたがいらしたのも、ウラニウムのことなんでしょう?」
「ウラニウムって、なんのことなの」
「秋川のところへ、話を持ちこむのは、賢明よ。十三億という金を、右から左へ動かせるのは、いまのところ、秋川ぐらいのもんだから」
奥につづくドアから、秋川がはいってきた。
「無人《ぶにん》の家で、ろくな、おもてなしもできませんが、どうか、夕食を……カオルさんも」
カオルは、すらりとソファから立って、
「あたし、失礼するわ。年忌《ねんき》のお斎《とき》なんか、まっぴらよ」
そう言うと、足でドアをあけて、あとも閉めずに部屋から出て行った。
間違いつづき
留守居を置いてあるだけ、と言っていた。材料持ちで、ホテルからでもコックを呼んで支度をさせたのだろうか。明るい吊灯《つりとう》の下の食卓にならんだ酒瓶や料理の数々は、簡単なものではなかった。
食べものは、食後の菓子まで食卓に出そろっている。たがいに給仕をしながら、やる式らしいが、食器はふたりの分しかなかった。
「愛一郎さんは?」
「愛一郎は、失礼するということでした……一週間ほど前から、みょうに元気がなくなって、食べたがらないで、困ります」
秋川は、詫びるようにいいながら、サト子のワイン・グラスに、あざやかな手つきで白葡萄酒をついだ。
「暮れかけると、肌寒くなりますね。まあ、すこし、めしあがれ」
デザートのマロン・グラッセをつまみながら、サト子は、白葡萄酒を、ひと口、飲んでみた。栗の味と葡萄酒の味がモツレあって、口のなかが夢のように楽しい。
「おいしいわ」
秋川は、すらりと瓶をとりあげた。
「よかったら、どうぞ……」
たのしみは一度だけということはない。それに、観光季節に八幡宮の参道をうろつく、ショウバイニンのひとりだと思われているのだ。いまさら気取ってみたってしようがない。
「いただくわ」
胃袋が暖まり、なんとなく気宇が大きくなる。中村という私服が、間もなく呼鈴を押しに来るのだろうと心配していたが、それも、さほど気にかからなくなった。
秋川は、ほどのいい間合《まあい》で、ゆったりとグラスを口にはこんでいる。それを見ていると、急にお腹がすいてきた。
東京へ帰るつもりで、昼前に叔母の家を出たが、秋川たちと美術館のティ・ルームで、お茶を飲んだきり、朝からなにも食べていない。
サト子は、鶏の手羽のホワイトソースを大皿からとって、秋川の皿にサーヴすると、いちだんと大きなのを、自分の皿へ取りこんだ。
「はじめても、よろしいの?」
秋川は、慇懃《いんぎん》にうなずくと、思いをこめたような調子で、つぶやいた。
「この家で、こんな楽しい夕食をするのは、ひさしぶりです。あなたのような方が居てくださるのだったら、好きでもない東京に、住むことはないのですが……」
なにを言いだす気なのだろうと、サト子は、フォークの手を休め、秋川の顔を見た。
食事がすむと、折りかがみのいい四十五六の婆やが、ものしずかに食堂へはいってきた。
「お客間に、コォフィをお出ししてございます」
サト子をうながして、つづきの客間に移ると、秋川はコォフィをすすめ、椅子をひっぱってきて、サト子と膝が触れあう位置に掛けた。
「こんなところへお誘いしたのは、ゆっくりお話をしたかったからで……」
カオルの話では、事業から手をひいているが、たいへんな金持ちで、七年も前に死んだ夫人の追憶にひたりこみ、この世の女には目もくれない変人、ということになっていた。
美術館のティ・ルームで見たときの第一印象は、大学の先生か、信仰のあついクリスチャンといった、心配のない堅苦しいタイプだと思っていたが、あらためて見なおすと、目もとにシットリとうるみがつき、頬のあたりが赤らんで、意外になまめいた顔になっていた。
「おやおや、こんなことだったのか」
愛一郎を夕食からはずしたのも、カオルを仲間に入れなかったのも、はじめから仕組んだことらしい。底の浅いたくらみが見えるようで、面白くなかったが、どんなひとでも、ひとつくらいは後暗《うしろぐら》い思いを、心のなかにもっている。死んだひとの追憶にひたりこんでいるというのは、嘘ではないのだろうが、若い娘を相手にしていると、つい、こんなことも言ってみたくなるのらしい。喫茶室のテラスで、横須賀のショウバイニンたちとやりあった情けない現場を、秋川は見ている。行きずりに家へ誘って、否応なくついてくるような女なら、なにを言いかけたって恥をかくことはないのだ。
「暖炉のなかで、コオロギが鳴いていますね。このへんは、ほんとうに静かですこと。まるで、夜ふけみたい……あたくし、そろそろ、おいとましなくては……荻窪へ着くと、十時ちかくになりますから」
秋川は、コォフィをすすりながら、
「お帰りになるというのを、おひきとめするわけにはいかないが、よかったら、お泊まりください。そのつもりで、支度させてありますから……じつは、愛一郎のことなのですが、私は、イキな父親になりたいとも思わないが、子供がなにをしているのか知らないような、おろかな父親にもなりたくない」
そう言うと、なんともつかぬ微笑をしてみせた。美術館で、遠くから愛一郎のほうを、じっと見ていた、憂いにみちたあのときの顔だった。
「愛一郎は、臆病なくらい内気で、物事に熱中したりしないやつでしたが、このごろ、たれの手紙を待っているのか、毎朝、門に出て、郵便受の前で張番をするようなことまでします」
美術館のティ・ルームでお茶を飲んでいるときに、もう、このキザシは見えていた。愛一郎の父は、サト子が愛一郎の愛人だと思いこみ、あくまでも調停の役をつとめようというのらしい。
「よく眠れないようだし、日ましに痩《や》せて行くのが見える……なにか、はじまっているのだろうとは、察していましたが、きょう、美術館で、あれのすることを見て、はじめて得心がいったわけです」
サト子は、言うことがなくなって、だまってコォフィを飲んでいた。
「一週間ほど前、愛一郎は、
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