ンの仲間だと思っている。心にもなく庇いたてしようとするのが、その証拠だった。
「ご用がおありになるんだったら、お強《し》いはしませんが」
サト子は、あわてて笑顔をつくった。
「……あたし、荻窪の植木屋の離屋に、ひとりで住んでいますのよ。帰っても、きょうは、もう寝るだけ」
女たちが、はやしたてた。
「……とか、なんとか、言ってるわ」
「おやすみなさい、おねえさん」
秋川は、暖かい大きな手で、そっとサト子の腕にさわった。
「そういうことだったら、無理にもお誘いしますよ」
愛一郎の家へ行けば行ったで、うるさいことがはじまりそうだったが秋川の親切には逆《さか》らいかねた。
「おじゃま、しようかしら」
だしぬけに、愛一郎が額ぎわまで赤くなった。腹をたてているとも、恥じを忍んでいるともとれる、複雑な表情だった。
三人がティ・ルームを出ると、いちばん若いのがサト子を追ってきた。
「ねえ、ちょいと……」
秋川の親子は、なにげないふうに、出口のほうへ歩いて行った。
「水上さんのお嬢さんでしょ?」
その娘は、目をクリクリさせながら、はずんだような声で言った。
「お忘れ? あたし、大矢のシヅよッ」
飯島の土地っ子で、大矢という漁師の娘だった。サト子が澗の海で泳いでいたころ、砲台下の洞の奥へ連れて行ってくれたのは、この娘だった。
「おシヅちゃん」
「思いだしてくれたのねッ」
そう言うと、シヅは、いきなりサト子に抱きついてきた。
「ごめんなさい……悪いと思ったけど、どうしようもなかったの……ねッ、ゆるしてえ」
サト子は、シヅの肩に手を回して抱いてやった。
「いいのよ」
シヅはケロリとした顔で、
「あんた、有名ね……ファッション・モデルって、お金になるんだって?……あたしも、なろうかしら。紹介してくださらない? このショウバイ、つくづく、いやになってるの」
シヅに別れて、美術館を出ると、秋川の親子が、青磁色のセダンのそばで待っていた。
「前のほうにしましょう」
運転席にすべりこむと、愛一郎が、となりにサト子の席をつくってくれた。
車が美術館の門を出ようとするとき、中村吉右衛門が門柱のところに立って、こちらをながめているのをサト子は見た。
聖家族
飯島では、まだ百日紅《さるすべり》の花が咲いているというのに、北鎌倉の山曲《やまたわ》では芒《すすき》の穂がなびき、日陰になるところで、山茶花《さざんか》の蕾《つぼみ》がふくらみかけている。
愛一郎は、目を細めて日の光をながめながら、無心にハンドルをあやつっている。うしろの座席から、秋川のくゆらす葉巻のにおいが流れてくる。
サト子は、愛一郎の横顔をながめながら、口の中でつぶやいた。
「こまったことに、なりそうだ」
空巣にはいったポロ・シャツの青年が、ナリをかえて自家用車の運転席におさまっているのを確認した以上、そのままに放っておくわけはない。車のナンバーは東京だし、秋川は鎌倉ではよく知られているひとらしい。二時間もすれば、空巣の青年が秋川のなににあたるのか、苦もなく調べあげてしまうだろう。
木繁《こしげみ》のいただきから、棟《むね》の高い、西洋館の緑色の陶瓦があらわれだしている。
しんと秋の日の照る、ひと気のない坂道をうねりあがり、苔《こけ》さびた石の門をはいると、ひろい前庭のなかの道を通って、白い船のような玄関の前で、車がとまった。
むぐらのしげりあう荒れはてた花壇に、丈ばかり高くなった夏の終りのバラが、一輪、ひよわい花を咲かせている。
サト子が、車からおりかけたとき、空鳴りのようなヴァイオリンの音をきいた。
荒々しいまわりの風景をおししずめるように、なにかの曲のひと節を、高く、清く、ひき終ると、それで、消えるようにヴァイオリンの音がやんだ。
愛一郎は、二階の窓のほうを見あげながら、沈んだ顔で父に言った。
「カオルさんが、来ています」
「そうらしいね」
「あいつ、ママの部屋へはいりこんで、ママのヴァイオリンをいじっている」
秋川は、たしなめるように、言った。
「カオルさんのことなら、あいつ、なんていうのは、よしなさい。ママの墓参りに来てくれたひとのことを、悪くいうのは……」
「たれだろうと、ママの部屋へはいったり、ママの遺品《かたみ》にさわったりしちゃいけないんだ」
「なにを、おこっている?」
「パパが、言ったでしょう。あの部屋は、ママが生きていたときのままになっているんだから、家具を動かしたり、置きかえたりしては、いけないって」
「そんなことを言ったこともあるが、訂正してもいい……この家を、ママの生きていたときのままの状態にしておきたいなどというのは、高慢すぎるねがいだからね」
愛一郎は、不服そうに鼻を鳴らした。
「きょうのパパは、いつものパパとちがうみたいだね……ともかく、ママのものにさわらないように、言ってきます」
「言いたいなら、言ってもいいが、乱暴な言葉をつかわないで、やさしく言いなさい」
愛一郎は、家のなかに駆けこんで行った。
愛一郎の父は、玄関のわき間を通って、客間らしい部屋へサト子を案内すると、
「けさ、亡妻の七回忌をやったままなので、失礼して、ちょっと着かえてきます」
そう言って、部屋から出て行った。
ひととき、百舌《もず》が鳴きやむと、山の深いしずけさが、かえってくる。
黒樫《くろかし》の腰板をまわした、天井の高い客間の南側は、いちめんにガラス扉で、そこから谷を見おろす、ひろびろとした芝生の庭に出られる。芝生の端は、松林で区切られ、しゃれた囲いをつけた、西洋風の四阿《あずまや》が建っていた。
「やはり、来るんじゃ、なかった」
サト子はソファに沈みこんで、あてどもなく芝生の庭をながめているうちに、うかうかとこの家へやって来たことを、悔みだした。
愛一郎の父が、扇ヶ谷の家へと言ったのは、苦境から救いだすための臨機の弁で、ほんとうは、来てもらいたいのではなかった。それに、きょうは間の悪い折だったらしい。車のそばで、秋川の親子がなにを争っていたのか知らないが、なにかゴタゴタした空気が感じられる。
勢いよく奥のドアが、あいた。
警官かとも思わなかったが、サト子は、あわててソファから立ちあがった。
すっきりとしたひとがはいってきて、しげしげとサト子の顔を見てから、歯ぎれのいい口調で、あいさつをした。
「あら、サト子さんだったのね?」
東京へ帰ったら、否応なく訪問することになっている、山岸芳夫の姉のカオルだった。
二十七にしては、老《ふ》けてみえるが、そのひとにちがいない。むかしから、似たところのない、ふしぎな姉弟だった。
ざっとした空色のワンピースに、ストッキングなし……裸足《はだし》で、スリッパも穿いていない。
髪をやりっぱなしにし、シャボンで洗いあげたように清潔な顔に、クッキリ眉だけかいている。ファッション・モデルのいう「荒れた」ようすをしているが、野性的で、それなりに、みょうな魅力があった。
「春ごろ、芳夫が日比谷でお会いしたんですって? いちど、お目にかかりたいと思っていたの……あなたに、忠告したいことがあるのよ」
思い出のなかの山岸カオルは、飯島の澗の海へやってきても、土地っ子や漁師の娘といっしょに泳がない、高慢な印象になって残っている。
そのころ、山岸の別荘はお祖父さんの別荘と庭つづきになっていたので、弟の芳夫は、じぶんの家のように出入りをしていたが、カオルは別荘の奥にしずまって、ヴァイオリンをひいたり、ドイツ語の教師をとったり、たいへんな澄ましかただった。
「何年になるでしょう。こんなところでお目にかかるなんて、思いもしなかったわ」
「あなただって、忘れはしないはずよ……うちのママも、あなたの叔母さまも、戦前の飯島女めらは、まい夏、神月の別荘で親類になった仲でしょう……その子孫ですもの、縁は切れていないのよ」
ようすのよかった若い時代の叔母が、朝のしらじらあけに、目ざといお祖父さんに見つからないように、神月の別荘から、こっそりと帰ってくるのを、サト子もいくどか見た。
「そう言えば、そうね」
聞きたくもない話だったが、子供のころの記憶がかえってきて、いくらかカオルをなつかしく思う気持になった。
カオルが、探るような目つきでサト子の顔を見た。
「どちらに、ご用なの? おやじのほう? せがれのほう?」
また誤解されそうだ。サト子は、美術館で秋川の親子に会って、ここへ誘われるまでのことを話した。来ずにいられなかったわけがあるのだが、それは言わずにおいた。
カオルは、唇の端を反らして薄笑いをしながら、
「おやじも偏屈だけど、愛一郎って子、神経質で手がつけられないの。帰るなり、あたしにあたりちらして……美術館で、なにかあったのかしら」
サト子は、さりげなく言い流した。
「かくべつ、なにも……」
カオルは、ガラス扉のほうへ歩いて行くと、芝生の庭を見ながら、サト子のほうへ呼びかけた。
「あそこを、ごらんなさい」
むこうの松林のそばを、秋川の親子が肩をならべながら歩いているのが、小さく見えた。
「親子でモタついているわ。おだやかな見かけをしているけど、あれが、秋川親子の喧嘩《けんか》の姿勢なの。なにもなかったのなら、あの親子が喧嘩するはずはないわ……でも、おっしゃりたくなかったら、おっしゃらなくともいいのよ」
突きはなすように言うと、カオルはガラス扉のそばを離れて、サト子のいるほうへ戻ってきた。
秋川は、いつまでたっても、すがたを見せない。カオルは長椅子の端に掛けて、むっとした顔で、だまりこんでいる。サト子は、話題に窮して、心にもないお愛想を言った。
「ここのお宅、気にいってるみたいね。お住いになっているの?」
「こんな空家《あきや》、気にいるもいらないも、ないじゃないの……でも、人間に疲れて、ひとりになりたくなると、朝でも夜中でも、東京から車をとばしてきて、この家へ入りこんで、はだしで谷戸《やと》を歩きまわったり、罐詰をひっぱりだして食べたり、二三日、ケダモノのようになって暮すことがあるわ」
手枕をして、長椅子にあおのけに寝ると、マジマジと天井を見あげながら、トゲのある調子で、
「あなたの人気、たいへんよ……芳夫のお嫁さんに来てもらうつもりで、おやじとおふくろが、いろいろと画策しているわ……でも、問題にもなにも、なりはしないわねえ。芳夫みたいなやつ、あなた、なんだとも、思っちゃいないんでしょ?」
救われた思いで、サト子は、うなずいた。
「じつのところは、そうなの……東京へ帰ったら、すぐお伺いするように、叔母に言われているんですけど……」
「来ることなんか、ないわ。よかったら、あたしが、言ってあげましょうか」
「それじゃ、失礼よ……あたしの役だから、じぶんでやってみるわ」
「あなたって、おしとやかね……秋川、あなたのようなタイプ、好きなのかもしれない……そう言えば、死んだ細君に、どこか似たようなところがあるわ」
だしぬけに、起きあがると、
「むこうの部屋に、死んだ細君の写真あるわ。見せてあげましょうか」
と甲走《かんばし》った声で言った。
カオルが言っているのは、勝手にはいりこんだと言って、愛一郎が腹をたてていたその部屋らしかった。
「そんなもの、見せていただかなくとも、結構よ」
「まァ、見ておくものよ。秋川の親子、どうかしてるってことが、わかるから」
サト子を客間から連れだすと、とっつきの階段を、先に立ってあがって行く。庭でも歩きまわったあとらしく、うすよごれたはだしの足の裏に、草の葉が、こびりついていた。
片側窓の二階の廊下の端まで行くと、カオルはそこの部屋のドアをあけた。
三方が窓で、勾配《こうばい》のついた天井を結晶ガラスで葺《ふ》き、レモン色のカーテンが、自在に動くような仕掛けになっている。
壁ぎわのベッドの背板に、いま脱いだばかりというように、薄いピンクの部屋着を掛け、床《ゆか》の上に、フェルトのスリッパが一足、キチンとそろえて置いてあった。
窓
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