のような、みじめな感じはなかった。
「似ているけれど、ちがう顔だ」
 父親らしいひとは、儀式ばった会合の帰りらしく、黒の上着に趣味のいい縞《しま》のズボンをはいている。どこかで見た顔だが、思いだせない。
 ふたりのことは、それで、さらりと思い捨て、サト子は、また陶磁をながめだした。
「……」
 陶碗のうえに人影がさし、声ならぬ声を聞いたと思った。
 顔をあげてみると、息苦しいほどキチンと制服を着こんだ青年が、ケースをへだててサト子と向きあう位置にきていた。
「このあいだは……」
 あのときの空巣の青年だった。
 やはり、死んだのではなかった。月夜の海を泳いで、洞の奥へもぐりこんで行ったとき、呼びかけにもこたえず、落盤のむこうの砂場で、息を殺して隠れていたのだ。
「なんという、嫌なやつ」
 この顔が芙蓉の花むらのうえにあらわれてから、海へ飛びこんで溺れて死ぬまでに、二十分とはかからなかった。ひとの命のはかなさに、名もしらぬ青年の不幸な最後に、枕が濡れしおれるほど泣いた。人殺し、という叫び声に追いまくられ、身も心も萎《な》えるほど悩みもした……その当のひとは、どこかの貴公子のような、とりすました顔で、父親とふたりで、古陶磁の展覧会を見に来ている。
 追憶のなかに出てくる青年のおもかげは、いつも、すがすがしく、もの憂《う》く、あわれで、やるせない思いをかきたてられたものだったが、いまは軽蔑しか感じない。
 サト子は、冷淡な目つきで青年の顔を見かえすと、ゆっくりと、つぎのケースの前へ足を移した。
「お聞きねがいたいことがあります」
 青年が、ケースの向う側へきた。
 三人もの警官の目の前で、溺れて死ぬまねをしてみせる演技のたしかさは、ほめてやってもいいが、だまされるのは、もうたくさんだ。
「おねがいです」
 影のついた大きな目でサト子を見ながら、青年は、祈るように手をねじりあわせた。
 うるさくなって、サト子が、出口のほうへ歩きかけると、青年は、腕に手をかけて、ひきとめにかかった。
「五分ほど、お話を……」
 半礼装の紳士は、ほど遠いケースの前に立って、じっとこちらを見ている。
 そのひとが父親なら、いやなところを見せたくなかったが、青年の厚顔《あつかま》しさが我慢ならなかった。むごいほどに手を払いのけると、サト子は、強い声で言った。
「あなた、なんなのよ? うるさくするのは、よして、ちょうだい」
 思いあまったように、青年は顔に手をあてて泣きだした。
 居るだけのひとが、一斉に、こちらへ振り返った。
 なんという、みじめな真似をするんだろうと思って、サト子のほうが泣きたくなった。
 耳に口をよせながら、サト子はささやいた。
「みっともないから、泣くのはやめなさい……あそこにいるのは、あなたのお父さんでしょう? 空巣にはいったことを、言わずにおいてくれというのね?……いいませんから、安心なさい」
 父らしいひとが、おだやかな微笑をうかべながら、サト子のそばへやってきた。
「愛一郎の父です……あなたは、愛一郎のお友だちの方ですか」
 あたしが、こいつのガール・フレンドのように見えるのだろうか。たいへんな誤解……笑いたくなる。
「あなた、お妹さんがおありでしょう? このあいだ、光明寺のバスの停留所で、よく似た方にお会いしましたが……」
 愛一郎の父は、さりげなく胸のかくしからハンカチをぬきだし、後手づかいをしながら、泣いている息子に、そっと渡してやった。ほろりとするような情景だった。
 サト子は感動して、はずんだ声で言った。
「あれは、あたしでしたのよ……あなた、家をさがしていらっしゃいましたね」
 父なるひとは、うれしそうな声をあげた。
「おや、あなただった? 私はお妹さんだとばかり思っていました……陶磁を見るのは、案外に疲れるものですな……どうです、むこうで、お茶でも……」

  テラスに吹く風

 池の面《も》をとざす青々とした杉苔《すぎごけ》のあいだで、ときどき大きな鯉《こい》がはねあがる。
 喫茶室のテラスの丸テーブルで、愛一郎が、不興を受けた愛人といったかっこうで首をたれている。愛一郎の父は、不和の状態を回復しようというのか、サト子と愛一郎の間に割りこんで、笑ったり、うなずいたり、子に甘い父親がやるだろうと思うようなシグサを、のこりなく演じ、サト子の顔色をうかがいながら、とりとめのないことを、つぎつぎに話しかける。
「飯島のお住いは、もう久しくなりますか」
 これから、ひきおこる場面は、死にたくなるほど退屈なことになりそうだ。それはもう、わかっているのだが、父なるひとが、むやみに勤めるので、すげなく座を立つわけにもいかない。
「あたくし、東京ですの……子供のころ、夏ごと、遊びにきましたが」
「それはそれは……すると、この池に、白と赤の蓮《はす》が咲いていたころのことを、ごぞんじでしょうな」
「知っています」
「この池も、むかしは美しかったが、杉苔がふえて、池つづきのようになってしまった」
 のどかな話しぶりから推すと、愛一郎の父は、一週間ほど前、飯島の澗の海のほとりで、息子がえらい騒ぎをやったことを、なにも知らないらしい。
「むかしの鎌倉はよかったが、戦後は、ようすが変って、なじみのうすい土地になってしまいました……私も、扇《おおぎ》ヶ|谷《やつ》に家をもっていますが、留守番をひとりだけおいて、荒れるままにほうってある。まいとし、秋、これとふたりで、亡妻の墓参りに来るくらいのもので……それで、いまお住いになっている飯島のお宅は?」
「叔母の家ですの……由良と申します」
「……失礼ですが、あなたさまは?」
「パパ、ちょっと……」
 哀願するように、愛一郎が父に呼びかけた。
 詰りきった表情をし、興奮して肩で大きな息をついている。叔母の家の縁端で、三人の警官に追いつめられたときのあの顔だった。
 愛一郎という青年は、これほどの緊張にも耐えられなくて、なにもかも、父に告白する気でいるらしい。空巣のように、他人の家へはいりこんだにしては度胸がなさすぎる。サト子は、靴の先で、すこし強く、愛一郎の脛にさわってやった。
「足があたったわ。ごめんなさい、痛かったでしょう」
「いいえ」
 こちらの意志が通じたらしい。のぼせあがったような目の色が、それで、いくぶん落着いた。
 父が息子にたずねた。
「なにを、いうつもりだった?」
「こんなところで、お名前を伺ったりするのは、失礼だから……」
 やれやれ、どうにか切りぬけたらしい。
「失礼だったかな」
 父親は、わからぬなりに笑顔になって、サト子のほうへ向きをかえ、
「あなたは、あそこに並べてあるようなものを、よほどお好きとみえますな……この展覧会で、きょうで三度、お目にかかっているわけですが……」
 そういうと、名刺をだして、テーブルのうえにおいた。
「これが、お名前を伺うなといいますから、伺わずにおきますが、お近づきのしるしまでに、名刺をさしあげておきます」
 秋川良作……東京の住所と番地が、小さな活字で片付けてある。
「東京へお帰りになったら、いちどお出掛けください。ガラクタも、いくらかは集めてありますから」
 このへんが、潮どきだ。カウンターのうえの時計は、十六時五分前をさしている。いまからなら、九分の上りに間に合う。
 座を立とうとしたとき、ティ・ルームの入口から、派手な女の顔がのぞいた。
「あそこに、いる」
 参道で見かけるショウバイニンが三人、毒のある目つきで、サト子のほうをジロジロ見てる。
 世界市民、一号から三号まで……おそろいのように、アコーディオン・プリーツのスカートをはいている。高級な組らしく、これはひどい、というような変った顔はなかった。
 赤いナイロンのハンド・バッグをかかえた、小柄なのを先頭に、ゾロゾロとテラスへ出てくると、
「ごめんなさい」
 と、サト子の肩をこづいて、うしろの椅子におさまった。いやなことが、はじまりそうな予感があった。
「あのう……」
 案のじょう、背中あわせのテーブルから、声がかかった。
「あたくし?」
 特徴のあるショウバイニンの顔が、いっせいにニッコリとサト子に笑いかけた。
 疲れたようなところがあるが、どの顔も派手派手して、りっぱにさえ見える。アコーディオン・プリーツのスカートは嫌味《いやみ》だが、服も、靴も、アクセサリーも、みなホンモノで、三流クラス以下のファッション・モデルなどは、足もとにも寄れないほど、かっこうをつけている。
「お話ししたいことが、あるんですけど」
 観光季節に、横須賀からやってくる白百合組のショウバイニンを鎌倉の市警は嫌《きら》っている。さっきの若い警官は、鎌倉を職場にしてはこまるというようなことを、この連中に言ったらしい。サト子がその警官と歩いているところを見たので、告げ口をしたのは、こいつだと思いこんでいるのだ。かかりあえば、むずかしいことになるが、逃げられそうもない。
「どういう、ことでしょう」
 かわいらしいくらいな顔をした十七八の娘が、あらァと肩でシナをした。
「固っ苦しく、おっしゃられると、こまっちゃう……ご承知でしょうけど、あたしたち横須賀なんです。申しおくれて、ごあいさつもしませんでしたが……」
 季節はずれのダスター・コートを着たのが、サト子にウインクをしてみせた。
「お見それして、すみません」
 このひとたちは、どうしてこう意地が悪いのだろう。サト子自身も含め、この年代は、男も女も、さまざまな誤解にもとづく、おとなの知らない悩みをもっている。しんみりと話しあえば、わかることなのだが、それは、望んでもむだらしい。せめて、こうでも言ってみるほかはなかった。
「お見それ、ってことはないでしょう。まいにち、おあいしているわ」
 ダスター・コートが、冷淡にはねかえした。
「おねえさん、皮肉なことをおっしゃらないで……話ってのは、ショバのことなんです」
 泣きだしたりしたら、コナゴナにされてしまう。サト子は平気みたいな顔で言い返してやった。
「あら、そんなことなの?」
「なんて、おっしゃいますけど、あたしたちにしちゃ、死活問題なんです……当節、横須賀では、やっていけないから、鎌倉でショバをとりたいと思うのは、無理でしょうか、おねえさん」
 若いのが、横あいから切りつけた。
「ショバ代は、きまりでよろしいんでしょうか。はっきりしていただくほうが、ありがたいんですけど……」
 秋川の親子は、池のほうを見ながら、重っくるしい表情でお茶を飲んでいる。とんだ女をお茶に誘ったもんだ……秋川親子は、つくづくと後悔し、けがらわしい思いで悚《すく》みあがっているのだろう。
 愛一郎の父が未来の舅《しゅうと》だったり、愛一郎にすこしでもよく思われたいなどと考えているのだったら、この場面は身も世もない辛《つら》いものになったにちがいない……が、そうではないので、まだしも助かる。
 サト子は、あわれな微笑をうかべながら、
「おっしゃること、よく、わからないんですけど……だれかと、間違えているんじゃないかしら」
 ダスター・コートが、甘ったれるような含み声で、からみついてきた。
「なら、池のそばまで出てくださいません? わかるように、お話ししますわ」
 池のそばではじまる光景を想像して、サト子は、ぞっとした。
「けっこうよ。話なら、ここでうかがうわ」
 やせすぎの女が、赤い唇をパクパクさせて、脅かしにかかった。
「それじゃ、おためになりませんけど」
 愛一郎の父が、なにごともなかったような顔で、サト子にたずねた。
「あなた、まだ陶磁をごらんになる?」
「いいえ、こんどの上りで東京へ帰ります」
「われわれも、間もなく帰りますが、これから扇ヶ谷の家へ遊びにおいでになりませんか。荒れたままになっていますが」
 そして、撫でさする目つきで、息子のほうをみた。
「これも、切に希望しているようですから……」
 迷惑な話だが、なんとかこの場を糊塗《こと》してやるほか、おさめようがないと考えたらしい。愛一郎の父は、サト子をショウバイニ
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