、あんな努力をするものなのね。見なおしたわ」
吉右衛門は、黙然と海のほうをながめていたが、ポケットから煙草を出して火をつけた。
「中止しろと言ってきましたが、やめずにやっていたので、譴責《けんせき》を食いました……近いうちに、どこかへ転勤になるのでしょう」
泣いているのかと思って、サト子は、吉右衛門の顔をのぞいて見た。
「あれは、あなたの趣味なの?」
吉右衛門は、乏《とぼ》しい顔で笑った。
「趣味ってことはない……私は、作戦の都合で、助ければ助けられる部下を、何人か目の前で溺れさせました。いのちを見捨てたばかりでなく、死体ひとつ、ひきあげることができなかった……そのときの無念の思いが、いまも忘れられずに、こころのどこかに残っていて……」
サト子は、吉右衛門を戦争の追憶からひきはなすために、わざと強い調子で言った。
「戦争の話、もういいわ」
「たれも、もう戦争の話は聞きたがらない……だが、戦争の惨害を、トコトンまで味わった人間でなくては、ほんとうに人間のいのちをいとおしむ気持には、なれないものです」
「人間のいのちを、いとおしむために、戦争をしてみる必要も、あるわけなのね?」
むっとして、サト子の顔を見かえすと、吉右衛門は、失礼しますと言って帰って行った。
女中が、奥さまがお呼びですと、言いにきた。
「おはよう、おばさま……お目ざめですか」
日除が影をおとす、うす暗いところから返事があった。
「サト子なの?」
右手の壁ぎわに、三面鏡や、電蓄や、レコードの箱や、雑多なものをかた寄せ、その反対側に、夜卓《やたく》とフロア・スタンドをひきつけ、いぜんお祖父さんのものだった、バカでかいベッドのうえで、叔母がむこう向きになって寝ていた。
海沿いにあるこの別宅は、お祖父さんのものだった。
飯島の崖の上にこの別荘を建てたよく年、すごい台風がきて、庭先まで波がうちあげ、お祖父さんは、びっくりして、ここにコンクリートの洋間の一郭をつくった。
台風が来そうになると、海にむいた広縁の雨戸にスジカイを打って、ここへ逃げこむ。洋間の一郭と、母屋《おもや》の間にある木戸は、高潮が来たとき、裏の崖へ駆けあがるための逃げ口なのだ。
サト子が、小さかったころには、まいとし、この別荘にきて、ながい夏の日を遊びくらしたものだが、その後、お祖父さんは、アメリカへ行ったきり、たよりもよこさないようになったので、この別荘はあいたままになっていた。戦争のあいだに、サト子の父と母が死に、なにかゴタゴタがあって離婚した叔母が、東京から移ってきて、自分の持家のような顔で居すわってしまった。
サト子は、めくらのように両手を前に突きだし、戸口のあたりをよろけまわった。
「どこにいらっしゃるの?……暗くて、なにも見えないわ」
ベッドのほうから、また声があった。
「大げさなことを言うのは、よしなさい。ここに、いるじゃないの」
「あッ、まだ寝ているのか……まだ御寝《ぎょし》なって、いらっしゃるんですか」
「温泉《ゆ》疲れがして、きょうは起きられそうもないわ」
叔母は、いちめん、もの臭いところがあって、一週間に一度しか風呂をたてない。風呂ぎらいの叔母が、湯疲れのでるほど温泉につかったとは思えない。疲れというのは、なにか、ほかのことらしい。
「日除をあげてもいいでしょうか」
「よろしい……ついでに、あたしを起して、ちょうだい」
ベッドのそばの日除をあげると、それで、大きな赤ん坊のように丸くふくらんだ、叔母の顔が見えるようになった。
「お起ししましょう」
骨を折って叔母をひき起すと、背中のうしろに西洋枕を二つかって、もたれるようにしてやった。
「二十三貫……ぴったりでしょう? おばさま」
叔母は、いやな顔をした。
「熱海で量ったら、二十貫、切れていた。もっとも、子供の乗る台バカリだったが」
「そういえば、お出かけになるときより、ずいぶん、すらっとなすったわ……熱い湯に、たびたびつかると、一時は、やせるといいますから」
「そういうね」
「おばさま、おやせになるために、温泉へいらしたというわけ? そうだったら、隅におけないわ」
「隅に置けないって、なんのこと?」
「ぜひとも、おやせになりたい目的が、おありになるの? あやしいわね」
「なにを言ってるんです、あなたは」
叔母は、照れかくしに怒ったような声をだしたが、この見当ははずれなかったらしい。みょうなシナをしながら、サト子を打つまねをした。
「税務課、まだネバッている? 来れば、半日ぐらいは坐りこむやつなんだ」
サト子には、叔母の気持がよくわかっている。
この別荘と土地は、アメリカへ行ったお祖父さんの名で登記したままなので、叔母は、借家人だと言い張って、固定資産税の徴収を拒みつづけている。
「いま来たひとなら、帰りました」
叔母は、なァんだという顔になって、
「あら、帰ったの?」
そう言うと、大きな伸びをした。
「そろそろ、起きようか」
「お起きになれます?」
「起きられるとも。病人でもあるまいし」
「温泉疲れで、起きられそうもないと、おっしゃっていらしたから」
「おなかがすいた……きのう、熱海で早目に夕食をしたきり、お夜食もしていないの……こけしちゃんにそう言って、すぐ、ご飯にして、ちょうだい」
サト子が、先に行って待っていると、叔母は、初袷《はつあわせ》のボッテリしたかっこうで茶の間へ出てきて、食卓につくなり、トースターでパンを焼きだした。
「サト子さん、さっき来たのは、たれだったの? あなたのボーイ・フレンド?」
「飛んでもございません。警察のひとです」
叔母は、ぎっくりと背筋を立てた。
「警察? あたしに?」
「まあ、おばさまの、お声ったら……」
叔母のおどろきようがひどいので、サト子のほうがびっくりしてしまった。
農林省の下級技官だったツレアイを課長の椅子におしあげるまで、請託や、贈物や、ザンソや、裏口の訪問や、そういう、うしろ暗いことを十何年もやった記憶があるので、警察と聞くと、なんとなく、ぎっくりするらしい。
「おばさまには、関係のないことなの。あたしのお客さま」
叔母は、ナイフで掃くようにトーストにうすくバターをなすりながら、いやな目つきでサト子のほうを見た。
「そんなことに、なるのだろうと思っていた……昨夜、あるところで聞いたんだけど、あなた、八幡さまの池のはたでポーズをして、百円とか二百円とか、モデル料をとるんだって?」
「百円、二百円ってことは、ございませんの。会の規定で、観光地の点景モデルは、一回、三百円と、きまっておりますから」
「金額はどうだっていいさ……だまし討ちみたいに、お上りさんの青年に写真をとらして、追いかけて行って、モデル料をとりあげるんだというじゃないの……鎌倉では、評判になっているのよ」
「料金をきめて、合意のうえではじめるんですから、だまし討ちということは、ございませんです」
「たれかを、太鼓橋のたもとへ追い詰めたというのは?」
「あれは、食い逃げだったの。防犯に協力する精神はよろしいと、警察にほめられました」
「バカな。警察が、そんなことをいうもんですか」
叔母は、それで、ものを言わなくなった。
サト子のほうへは目端《めはし》もくれず、庭の百日紅《さるすべり》の花をながめながら、大人物の風格で悠然と朝の食事をすませると、女中に食器をさげさせた。
「あなた、あたしに隠していることがあるね?」
「どういう、おたずねでしょう?」
「あなた、あたしのベッドに寝たでしょう、おとといの晩も? そして泣いたでしょう? 枕がしっとりするほど、涙をしぼりだすというのは、これゃ、ただごとじゃないわね」
肺腑《はいふ》をつく、というのは、こういうときのことを言うのだろう。サト子は、いつもこの手でやられる。
叔母は、じぶんだけのためにとってある、西洋種の緑色の葡萄《ぶどう》の皮を、手間とヒマをかけて丹念にむきながら、
「あたしは、あなたを、かわいいとも……好きだとも、思っているわけじゃない。ただ……」
「よく、わかっていますわ、おばさま」
「ただ、ここで、あなたがなにをしたか、聞いておきたいの」
サト子が、だまっているので、叔母が、うながした。
「どうなの?……ここで話しにくいなら、広縁へ行きましょう、お立ちなさい」
サト子は、ひきあげられるように座を立って、叔母のあとから広縁の籐椅子に行った。
庭端から、澗にむいた暗い洞の口が見える。
サト子は、近所の久慈という家にはいった空巣が、地境の生垣を越えてきて、警官に追いつめられて、崖から飛びこんで溺れて死ぬまでの話をした。月夜の海を泳いで、洞の奥へ青年の生死をたしかめに行ったクダリは伏せておいたので、全体として、生気のない話になってしまった。
「初七日に、死体があがるという迷信があるんですって? きょうは七日目ですから、警察のひとが、澗をのぞきにきたというわけなの」
「空巣が、海へ飛びこんだのは、一週間も前のことでしょう? かわいそうだと思う気持はわかるけど、一週間も、泣きつづけるほどのことが、あるんですか」
サト子が、とぼけた。
「感じやすくて、こまりますの、おばさま」
叔母が、せせら笑った。
「感じやすいという柄ですか。そんなひとなら、留守番に来てもらったりしないわ。このごろ、空巣がはいるので、留守居がないと、旅行に出られやしないのよ」
サト子は、ムッとして言った。
「お出かけになる前に、そのことを言っておいてくださればよかった……垣根を越えてはいってきたひとを、近所の方かなんて、思いちがいをすることはなかったでしょう」
「それを言ったら、留守番なんかしてくれないでしょ。そこは掛引よ。それで、久慈さんのお宅、なにか盗《と》られたの」
「なにも、盗られなかったふうよ。久慈さんのお宅って、どのへん?」
「知っているでしょう? いぜん、神月《こうづき》の別荘だった家」
「ああ、そう……神月さん、あの家を売って、東京へ越したんでしたわね」
「それを買ったのは帝銀の沢村さんで、そのあとが、いまの久慈さん」
「神月さんの代には、夏のあいだ、女のひとが大ぜい出入りして、にぎやかな家だったわ」
叔母は、気のない調子で、つぶやいた。
「神月ってのは、手もとに、いつも女をひきつけておかないと、落着けないという男だった……家のつくりにしてからが、そうなの。女たちが忍んで来れるように、みょうなところへ木戸をつけたりして……あれじゃ、空巣だって、はいるだろうさ」
叔母は、なにか考えているふうだったが、だしぬけにたずねた。
「あなた、いま、どんな生活をしている?」
他人のことには、いっさい無関心な叔母が、こんなことを言いだすのは、あやしい。
「あたしに、生活なんてもの、ないみたい……一日一日が、ぼんやりと過ぎていくだけ」
「なんとかモデルって仕事、月にどれくらい収入がある?」
「ショウですと、ワン・ステージ八百円、一枚、着換えるごとに、二百円。写真のほうは、ポスターが……」
叔母は、めんどうくさそうに手を振った。
「そんな、こまかいことを聞いたって、あたしにはわからない。結局、どうなのよ」
「七、八、九と、三カ月は完全にお休みだし、あたしたちのクラスは、いい月で八千円、わるくすると、千円にもならない月があるの……若い女がダブついているのがいけないのよ」
「ちょっと、うかがうけど、それは、仕事なの? 遊びなの?」
賢夫人だけあって、こういうやりとりになると、ひとのいちばん痛いところを突いてくる。どっちだろうと、サト子が、考えているうちに、間をおかずに、叔母が、おっかぶせた。
「そんなもの、やめちゃいなさい。はやく、お嫁に行くサンダンでもするほうがいいわ……手紙でいってやった、山岸さんの話は、どうなの?」
山岸芳夫というのは、子供のころ、ここの澗で泳いだ「お別荘組」のひとりだった。春ごろ、日比谷の近くで会ったが、あのときの泣虫の子供が、ひとかどのおとなになって、口髭《くちひげ》をはやしているのには
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