「新聞社の連中が、いま、ここへおしかけてくるんだそうです。たれか知らないが、電話で知らせてくれました……逃げ隠れすることはないのだが、これ以上わずらわしくなるとお困りでしょうから、やはり避けたほうがいいのかもしれない」
 サト子は空腹と、朝からの気疲れでわれともなく焦々した声をだした。
「だから、どうすればいいのか、言ってください」
「グリルへ行って、われわれと関係ないような顔で掛けていらっしゃい……私があしらっていますから、その間に、気づかれないように、すうっと出て行くんです……私の家、ごぞんじですね。電話をしておきますから、先に行って待っていてください……坂田君も来るでしょうから、じっくりと相談しましょう」
 坂田という名が耳にさからったが、どの坂田と聞きかえすひまもない。一段高くなった、奥のグリルの丸椅子に掛けると、ガゼット・バッグをかついだ新聞記者らしいのが三人、ラウンジへ駆けこんできて、突っかかるような調子で秋川にたずねた。
「日米タイムスのもんですが、水上サト子という、十三億の当り屋はどこにいます?」
「そんなお嬢さんは知らないね。見るとおり、男ばかりだ」
「おかしいな……すると、坂田省吾というのはあなたですか?」
「あいにく、そんなひともいない」
 サト子はグリルの丸椅子から辷りおりると、なに気ないふうでクロークのほうへ歩いていった。

  雲の上の散歩

 新聞記者の一団を置きざりにして、『アラミス』を飛びだすと、狭い通りを吹き通る風のあおりで、サト子はそこにパークしている車にぎゅっとおしつけられた。
 四丁目のほうへ歩きだそうとするとき、向う側の歩道のそばにとまっているセダンの側窓から、たれか手招きしているのが見えた。
 中村だ。さっき横浜へ帰ると言ったが、なにかの都合で、またここで待伏せをしている。
「もう、たくさんだ」
 けさから、たえずなにかに追いまくられている。うるさい話は聞きあきた。いまねがうことはなにか足るほどに食べ、人声のしない、しずかなところで、じっくりと考えてみたいということだけだ。
 サト子が動かないと見てとると、向うの車は、すうっとこちらの歩道へ寄ってきて、側扉《ドア》をあけた、山岸芳夫だった。
「ひどく、うっとりとしているみたいじゃないですか。さっきから呼んでいたんだが、聞えなかったの?」
「風のせいでしょう、聞えなかったわ」
 顔が半分隠れるような大きな埃よけの眼鏡をかけ、冗談みたいな細い口髭を生やしているところは、どう見てもトニー・なにがしの弟子といったかっこうだ。
 カオルの話では、築地のアパートにいることを探りだしたのは、芳夫だということだった。この出会いも自然らしくない。『アラミス』にいることを知って、待伏せをしていたとしか思えなかったが、顔を見ていると、バカらしさが先にたって、まじめな話などはできそうもなかった。
「この春、日比谷の角で会ったきりでしたね。しばらく、ぐらいのことは言ってほしいよ」
「しばらくね」
「毎日、待っていたんですぜ、遊びに来てくれるっていうことだったから……おっと、こんなのんきな話をしていられない。ほら、新聞記者が出てきた……トンマな顔をして突っ立っていないで、早く」
 さっきの記者たちが、ドヤドヤと『アラミス』から出てきた。先頭の二世らしいのが、サト子のほうを指さして、
「あれだ、あそこにいる」と叫んだ。
 サト子が、あわてて芳夫のとなりに辷りこむと車はいきなり四丁目のほうへ走りだした。新聞社のセダンが、おおあわてにスタートしかけているのが後の窓から見えた。
 芳夫は舌打ちをすると、どこかのキャバレの仕着せを着た運転手に声をかけた。
「うるさいな。あいつら、振り放してくれよ」
「よござんす。三宅坂あたりで振り落してやりまさア」
 運転手が伝法な口調でこたえた。
 四丁目の角を左折して、日比谷の交叉点を突っきると、猛烈な勢いで三宅坂をのぼった。台風気味の強い風が、追風になっているが、車体はフワリともしない。
 山岸芳夫は足もとに置いたスーツ・ケースやボストン・バッグをふんづけて、シートに寝そべりながら
「もう、あんなに靄んじゃった」
 と得意らしく、つぶやいた。
 後の車は、そこで五十メートル以上もひきはなされ、トラックのうしろに小さくなっていた。
「いい調子でしょう? 五四年型のクラウン・インペリアル……気に入ったら、取っておきなさい。たった三百万円です」
「取っておくって?」
「ほしかったら、お買いなさいって、言っているんです」
 期待はずれと失意の連続で、はかない気持になっていたところだったので、こんな男だと承知しながらも、芳夫の軽薄なものの言いかたが癇にさわった。
「冗談にしても、もうすこし身につくことを言ってちょうだい。そんな話、腹がたつだけだわ」
 芳夫は居ずまいをなおすと、真顔になって、
「身につく話ってのを伺いましょう。あなたがしたいのは、どういうことです」
 いつもの、しゃくったようなところはなく、ひどくしんみりとしていた。
「サト子さん、あなたはなにも知らないでしょうが、ことしの春から、これでもう一年近く、あなたのためにヤッサモッサやっていたんですぜ……だから、どうしてくれというんじゃない。あなたが幸福になれるように、純粋にそればかりをねがって……」
 毎夏、鎌倉の海で遊びくらした仲で、サト子に苛《いじ》められながら、サト子の行くところならどこへでもついてくる、人なつっこい少年だった。キザな恰好をするので誤解されるが、姉のカオルが言っているようなつまらないだけの男ではないはずだった。サト子も甘いので、むかしのことを思いだして、つい親身な気持になった。
「あたし、お腹がすいてるのよ。いまの望みはなにか食べたいということだけ」
 芳夫が座席のうしろに倒れて、腹を抱えて笑いだした。
「日本のルシル嬢が、腹をすかして泣いているって? こいつは、いいや」
 さんざんに笑ってから、芳夫は涙を拭いて、
「ええ、それから」
「それから、OSSで罐詰や腸詰を山ほど買いこんで、西荻窪の離屋へ帰って、そんなものに取巻かれながら、二三日、安心してごろっちゃらしていたい……」
「それも思召しどおりにいたしましょう……それで、今日はどこへ行くところだったんです?」
「目白の秋川さんのところへ伺う約束になっているの」
 芳夫はむずかしい顔になって、首を振った。
「それは、やめていただきましょう。それじゃ、日米タイムスのやつらを向けてやった甲斐がなくなる」
「あれは、あなたの仕業だったのね? おかげで、だいじな話がこわれてしまったわ」
「神月が恐れているのは、あなたのことが新聞に書きたてられて、じぶんらの暗い仕事が明るみに出ることなんだ。新聞記者をさしむけてやれば、いやでもあなたを逃がすだろうと思ったから」
「なんのために、そんなことをするの? 神月はともかく、秋川さんまでが迷惑するわ」
「秋川はいい人間だが、二ヵ月ほど前から、あなたにとって危険な存在になっているんです。秋川のところへ行くのは、当分、見合わせてください」
「それは命令なの?」
「いや忠告です……それから、いま西荻窪と言ったが、あそこの離屋へ帰るのも、やめていただきましょう」
 足もとのスーツ・ケースを顎でしゃくって、
「当座困らないようにと思って、西荻窪へ行って、あなたの身のまわりのものを持ってきました」
 サト子は腹をたてて、底のはいった声でたずねた。
「あたしをどこへ連れて行こうというの?」
「麻布に適当な家を見つけておきましたが、お気にいらなかったら、お望みのところへご案内します。箱根でも、熱海でも……」
「あなたなんかと、そんなところへ行くと思う?」
 芳夫は、ふむと鼻をならすと、なんともいえない複雑な笑いかたをした。
「その考えかた、通俗ですね……あなたには、ぼくってものがまるっきりわかっちゃいないんだ」
 そういうと、感慨をとりまとめようとでもするように、煙草をだしてゆっくりと火をつけた。
「子供のころ、ぼくはあなたほど好きなひとはなかった。あなたのそばへ行くたびに、胸をドキドキさせていたもんです。そのときの印象は、いまでも心のどこかに残っているが、ぜひともあなたに愛されたいとも、結婚したいとも思っちゃいないんですよ……位取りがちがうんだ。あなたはあまり立派すぎて、ぼくの手に余るんですよ。あなたと結婚したら、ぼくの半生はひどく窮屈なものになるでしょう。それはもうわかっている。ぼくが結婚する相手は、あなたより二ポイントほど下った、平凡な女で結構です……ともかく、ぼくには保護感情みたいなものがあって、しきりにたれかに奉仕したがっているらしい。いまのところ、それがあなただというだけのことなんだから、誤解のないようにねがいたいです」
 車は青山一丁目のあたりを走っている。芳夫は脇窓から町並をながめながら、
「笄町《こうがいちょう》へやってくれ」
 と運転手に言った。
「よけいなことを言うなよ」
 芳夫が運転手を叱りつけると、車は急に勢いづいて、墓地の間の道を麻布の高台のほうへ走りだした。
「いま、家をお目にかけますが、ほかに、なにかお望みがありますか」
「仕事の口が二つあったんだけど、どちらもうまくいきそうもないの。あなたがアラディンのランプを持っているなら、明日からでもすぐ働けるところと、前渡金をすこしもらえるようにしていただきたいもんですね」
 芳夫は脇にひきつけていたPAAの空色の飛行鞄《エア・バッグ》のジッパーをあけて、中のものを見せた。サト子がのぞきこんでみると、緑色をした外国の紙幣らしいものが束になって、コミあうように口もとまでいっぱいに詰まっていた。
「それはお札《さつ》なの?」
「アメリカの本国ドル……三万ドルありますが、これで足りますか」
「たいへんなお金だわ」
「こんなものにおどろくことはない。あなたの取分《とりぶん》の百分の一にもあたらないんだから」
 芳夫はポケットから「シアトル日報」という邦字新聞を抜きだして、『日本のルシル嬢、水上サト子さん』という見出しのついたところを指さしてみせた。
「ルシルって、誰のことなの」
「ルシルってのは、初代のロックフェラーの巨万の財産を相続した、有名な孫娘です……まあ、読んでごらんなさい」
 有江曽太郎が氷川丸に乗る前夜、シアトルの新聞記者に語った談話の概要で、水上サト子に遺贈された三百五十万ドルに相当するウラニウム鉱山の鉱業権が、坂田省吾という山師の手に渡り、サト子と叔母の由良ふみ子が相続権の問題でゴタゴタしているところへ、在日の不良外人が介在して、受益権者の立場が危険に瀕している。今度の帰国は展墓が目的だが、亡友の意志を継いで水上氏の孫娘の諸権利を確立したいためでもあると結んであった。
「こういうわけで、ヤッサモッサやっていたんです。この金はウィルソンという奴からひったくったんで、開発参加料だとも、入札参加料だとも、いいように考えてくだすってよろしい。ともかく、ぼくがあなたの代理で、仮受取をおいてきました」
 なんのことなのか、じっくりと頭にはいってこない。よく聞いて見ようと思っているうちに、緑色の陶瓦のある塀を長々とひきまわした、大きな屋敷の前で車がとまった。
 鋳金の鉄門から赤針樅《あかはりもみ》の並木道がつづき、その奥に白堊の大きな西洋館が見えた。
「あなたのお世話はメードがするはずです……車は、運転手つきで、一週間、借切りにしてありますから、出掛けるときはこれに乗るように……どこへ行かれてもいいが、有江の話がすむまでは、秋川や神月の一族に会わないほうがいいです……あなたが、ここにいることは、モデル・クラブの天城が知っていますから、用のあるときは連絡してください」
 そう言うと、このひとは清水君、と運転手を紹介した。
「ボーイと夜警の役をしてくれるはずだから、なんでもいいつけてくだすって結構です」
 並木の道を、エプロンをつけたメードが二人駆けてきて、サト子の鞄とエア・バッグを受取った。
「じゃ、近いうち
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