「じゃ、ご遠慮なく」
「遠慮じゃない、そちらの用談がすむのを待っているんだ」
 神月は秋川の意中をはかりかねて、チラリと不安な表情をうかべた。
「変な顔をすることはない。そっちの話がすんだら、サト子さんを、どこかへ誘いだそうというだけのことだ。時間がかかる?」
「すぐ、すむ」
「そんなら、ここにいようか。お邪魔でなかったら」
 秋川は、立ちかけていた椅子に腰をおろしながら、
「サト子さんから聞いたんだが、ドイツのグラス・ファイバーの宣伝をするんだって?」
「そうなんだ」
「妙なことをはじめたもんだな。君の才覚ではあるまい。バック・アップしているのは、なにものなんだ?」
「れいのパーマーさ」
「パーマーって、誘導弾の売込みにきているパーマーのことか?」
 神月は、いやな顔をしながら、うなずいた。
「おれが翼賛会の興亜本部にいるとき、あいつがオットー大使の後釜になってやってきた……終戦直後、一時、熱海の万平ホテルに、かくまっておいたこともあるんだ」
「日銀関係では、歓迎会をやったりしているが、なんだか、うろんな人物だな。日独協会なんかじゃ、ナチの系統などは追いだしてしまえなんて、騒いでいるということだが」
「いや、それほどの男じゃない」
「ビニロン・ジュポンの極東総支配人だなんて自称している、ウィルソンなんかもそうだが、あれらの系列は、去年の春ごろから、東南アジア諸国で、詐欺のような手段で、ウラニウムの鉱山を叩いているという噂があるね」
 神月は白い喉を見せて、はははと笑った。
「ウラニウム?……知らないねえ。将来、放射能ファイバーなんてのが、できるかもしれないが、いまのところは、ガラスからとる繊維だけの問題だ」
「日独化繊の内容は知っているが……」
 秋川は強い調子でおしかえした。
「パーマーなんていう、うろんなやつをバック・アップにするような商社じゃないよ」
 神月は、とぼけた顔で、
「どういう調査の仕方をしたか知らないが、事実は事実だ。君には関係のないことだよ」
「関係のないことに、ぼくが口をだすと思うか」
 食堂のほうから、食べものの匂いが、水脈《みお》をひいてラウンジへ流れこんでくる。このふた月のあいだ、たえず脅されつづけてきた、恐怖をともなう飢餓の感じが、胃袋のあたりを強く押しつける。
 食うあてがなく、肉体と精神が恐怖をおこしている人間の気持を、このひとたちは理解できない。サト子はあてどもなくクロークのほうをながめながら、神月のほうの話をはやくきめて、いくらかでも前渡金を握りたい思いで、焦《いら》々してきた。
 サト子のほうは退屈なだけだったが、神月と父の間にはさまった愛一郎の顔は見ものだった。愛一郎は、死んだ母の古い恋文のことで、神月にぬきさしのならないところをおさえられている。父が神月を怒らして、なにもかもさらけだされたらどうしようと思っているふうで、ハラハラしながらふたりの顔をみくらべていたが、そのうちに、
「パパ」
 と、あわれな声で秋川に呼びかけた。
「サト子さん、ご用があって、いらしたんでしょう? パパばかりしゃべっていたら、お話ができないでしょうから」
 秋川は、わびるようにサト子にうなずいてみせた。
「失礼……お邪魔はしません」
 サト子は神月のほうへ向きかえ、
「だいたいのことは、カオルさんから、聞きましたけど」
 と控え目に切りだした。
「もうすこし、くわしいことを伺いたいんです。ファッション・ショウは、どこですることになるんでしょう」
 神月は象牙の長いシガーレット・ホルダーを、口のほうへ持って行きながら、
「リオとサン・パウロ……行きがけに、シアトルと桑港《サン・フランシスコ》でもやる予定です」
「ドイツのグラス・ファイバーを、日本からブラジルへ持って行くというのは、どういうことなんでしょう?」
「対米感情が悪いので、ビニロン系のものは、ブラジルでは伸びない。それで、サン・パウロの五百年祭の前に、しっかりと食いこんでおこうというのです……だから、モデルもアメリカ人でなく、日本から素質のいいひとに行ってもらうことにしました」
「それで、あたしの役は、どういう?」
「あなたはリーダーになって、十人ばかりのモデルを引率して行ってくださればいいんです」
「日程は、どれくらい?」
「往復の日数も含めて、二週間」
 話の筋は通っている。秋川が心配していたような、うろんなところはどこにもない。二週間ですむのだったら、日本を離れることも苦痛ではない。シアトルに寄るなら、お祖父さんにも会えるわけだし、ギャラさえよかったら、この話をきめたいと、承諾するほうにサト子の気持が傾きかけた。
「契約書のようなものがありましたら……」
 神月は笑いながら首を振った。
「むずかしい手続きはいらない。紳士協約でいきましょう」
 内かくしの紙入れから、あざやかな手つきで小切手をぬきだして、テーブルのうえに置きながら、
「ギャラは、二百万円というところでおさまっていただきましょう。そのかわり、前渡しとして半分だけさしあげておきます……銀行はすぐそこだから、キャッシュ(現金)がよければ、キャッシュでお渡ししますよ」
 十四日で二百万といえば、Aクラスの一流のモデルの報酬より、はるかにいい。ほかにむずかしい条件がなければ、断る理由はない。サト子は、ふるえる手で小切手をとりあげた。
「自信がないけど、いっしょうけんめいにやってみます」
 秋川が、わきから口をだした。
「二百万円じゃ、安すぎる……そんな取引はない」
 神月は、むっとしたように秋川のほうへ向きかえた。
「安いというようなギャラじゃない。君なら、いくら出す?」
「三百五十万ドルは出す」
 神月は、ひきつったように笑いだした。
「三百五十万ドルというと、十二億六千万円か……なにを言いだす気なんだ」
 あまり大きな話なので、サト子も釣られて笑いだした。秋川はサト子の肩にさわりながら、
「そんな話、断ってしまいなさい。あなたのからだは、たしかに、それくらいの値打ちがあるんだから」
 神月は、底意のある目つきで愛一郎の顔を注視しながら、
「君のパパは、ひどいことを言っている。愛さん、だまっていないで、とりなしてくれよ」
 愛一郎は、だしぬけに額ぎわまで赤くなった。
「え? そういう約束だったろう。困るときには助けてくれるって……」
 愛一郎は、口ごもりながら秋川に言った。
「この仕事がだめになると、神月さんが困るんです……おねがいだから、邪魔をしないで」
 しどろもどろになっている愛一郎を、秋川はなでるような目つきでながめてから、人がちがったような辛辣《しんらつ》な顔つきになって、神月のほうへ視線を向けた。
「機会があったら、言おうと思っていたことがあるんだが、いいかね?」
 神月は白《しら》々しく煙草の煙をふきあげながら、
「なんなりと、どうぞ」
「君に仕送りをしているのを、友情のあらわれだなどと、君にしたって、思っちゃ、いまい」
「誰がそんなことを思うもんか」
「君は、貧乏するだろうという感じだけで参ってしまうような、弱いひとで、せっぱつまると、めちゃなことをやりだすんだが、そのたびに迷惑をこうむるのは、君の古い友だちや知己なんだ……あまり貧乏にしておくのはよくないから、君のまわりのひとたちを保護する意味で、今日まで君の生活を見てきた……うちあけたところは、そうだったんだ」
 マニキュアをした美しい手を、神月は目の前でうちかえしてながめ、
「君の家のほうへ、足をむけて寝たことはないんだよ、これでも」
「君の生きているあいだは、生活の苦労はさせないつもりでいる。贅沢を言いだせば、きりのないことだが、すくなくとも、現在はさほど不自由はしていないはずだ……人生の冒険も波瀾も避けて、平安に暮して行きたいと、いつか君が言っていた。こんなあくどい仕事に手をだそうとは、思いもしなかった」
「おれが、なにをしているというんだね?」
「いま、やりかけていることは、体のいい誘拐みたいなものだと言っているんだ……サト子さんは孤独な境涯にいるが、それでも、まちがいのないようにと心配している人間も、いくらかはいる。そういう中から、サト子さんをひきだして、無理にも孤立させようというのは、どういう企みによることなんだ?」
 神月は、空うそぶいたまま返事をしなかった。
「君の最近の行状を見ていると、ひどく日本人ばなれがして、第三国人になったのかというような気がするよ……苗木のウラニウム鉱山のことだが、個人の利福の問題はべつにしても、国民全体に損失を与える結果になることを承知しながら、平気な顔で、つまらない奴らのお先棒をかついでいる」
 神月は、目にしみるような白いハンカチを抜きだすと、いいようすで口髭をぬぐいながら、
「そんなにまで、水上嬢に肩を入れているのか。そういえば、死んだ、夫人《おく》さんの若いころによく似ているよ、こちらは……邪推だったら、ゆるしてもらうが……」
 秋川は頬のあたりを紅潮させると、愁《うれ》いを含んだ複雑な表情になって、
「つまらないことをいうね。よくよく下劣なやつでも、そんな低音は出さないもんだが」
「こちらが、亡くなった夫人さんの若いころに似ていると言ったのが、そんなに気にさわったのか……言いあてたらしいね、悪かったよ」
 秋川はそれを聞き流して、サト子のほうへ向きかえ、
「いまの小切手を神月君に返してください、事情はあとで申します」
 きょうは、つぎつぎと劇的な場面がひきおこる。サト子には、それがなにと理解することはできなかったが、中村が言ったことなどを思いあわせ、なにかこみいった事情があるのだろうと思い、ハンド・バッグにしまいこんだ小切手を出して、テーブルのうえに置いた。そうして、心の中でつぶやいた。
「これで、また文なしになった、がっかりだわ」
 神月は取るでもなく取らぬでもなく、小切手を指先でもてあそびながら、
「ここへ置いたって、返したことにはならない」
「その紙切れを、紙入れにしまいこめば、それでいいんだ。サト子さんをシアトルへ連れて行って、アメリカの鉱山法で、アチコチしようという企画は、見込みがないものと思ってくれ」
 神月は愛一郎に妙な目配せをしながら、
「愛さん、パパは病気らしいよ……早く帰って、おやすみになるように、言ってくれ」
 愛一郎は睫毛《まつげ》が頬に影をおとすほど深く目を伏せ、石のようにじっとしていたが、そのうちに手をのばして、そっと秋川の腕にさわった。
「パパ、帰りましょう。ぼくたち、お邪魔してるらしいから」
 秋川は、愛一郎の手をとると、小さな子供にでも言うような、やさしい口調でささやいた。
「いま帰ると、サト子さんがつまらない目にあう……知っているはずだね?」
「知っています」
「聞きたいのだが、なんのために神月君に気がねをしたり、恐れたりしなければならないんだ? お前がたれよりも好きだと言っているサト子さんを見捨ててまで、神月君を庇いだてしなければならない義理があるのか」
「ぼく神月さんに借りがあるんです」
「借りというのは……金のことか?」
 愛一郎は祈るように目をとじた。
 神月にどうにもならない負債があることをサト子は知っているので、どういうおさまりになるのかと思って、気が気でなかった。
 秋川は額を曇らせて、じっと考えこんでいたが、間もなく笑顔になって、愛一郎にうなずいてみせた。
「それは、パパが払ってあげる」
「なぜ、ぼくがそんな借りをつくるようになったか、理由を聞かないでも?」
「聞くなと言うなら、聞かなくとも、いい」
 愛一郎の顔に、ほっとしたような色が浮んだ。そのとたんに、涙が筋をつくって頬につたわった。
 秋川は、みえも張りもなく愛一郎の肩を抱きながら、
「子供の借金を、オヤジが払うのは、あたりまえのことだ。その話は、パパと神月君できまりをつけよう。それで、いいね?」
 愛一郎がうなずいた。
 ボーイが秋川に電話だと、つたえた。秋川は立って行ったが、しばらくして戻ってくると、ラウンジの入口へサト子を呼んだ。

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