はしゃいだ笑い声をたてた。
「お伺いしたいんですけど、きょうは、ちょっと困るのよ」
 そう言ってから、中村に、
「中村さん、こんにちは……みょうなところでばかり、お目にかかるわね」
 と挨拶すると、中村は、いつもの無表情な顔で、やあと渋辛《しぶから》い声をだした。
 中村が秋川に逢っているとは、思いもしなかった。いつかの飯島のさわぎを、むしかえしているのでないかと、そっと愛一郎の顔をみてみたが、はずんだような表情があるばかりで、そんなけわしいやりとりがあったようには見えなかった。
「あなたも、秋川さんに?」
「いいえ、そうじゃないのよ……きょうは、ちょっとほかに……」
 中村は、うごかぬ眼差しでサト子の顔を見てから、ああ、と不得要領にうなずいた。
「いま、秋川さんと、あなたの話をしていたところだったんだ」
「あら、どんな話?」
「それは、まあ、いろいろ……急ぐから、きょうは、これで失礼……このところ、警視庁の防犯課というところにいますから、用があったら電話をかけてください」
 クロークでコートを受けとると、袖に手をとおしながら、そそくさと回転ドアを押して出て行った。
「きょうは、パパに逢いに来てくだすったのではなかったんですか」
「なにを言いだすつもり? 秋川さんがいらっしゃるなんてこと、あたしが知っているわけはないでしょう」
「それもそうですね。ぼくは、なにを考えていたんだろう」
 サト子は、ラウンジの隅へ愛一郎をひっぱって行って、長椅子のうえにおしつけた。
「きょう、暁子さん、たずねていらしたわ」
「あなたのところへ? どうして?」
「どうしてって、用があったからよ。これを、あなたに渡してくれとおっしゃって……」
 サト子は、ビニールのネッカチーフに包んだ預りものを、愛一郎の手のなかにおしこんだ。
「これはなんでしょう」
「手紙らしいわ……ながいあいだ書きためた、うらみつらみの恋文、てなもんでしょう」
 愛一郎は、うたれたように、はっと顔を伏せた。
「こんなことにならなければいいがと、おそれていました……あのひとに責められるのは、ぼくは辛いんです」
「勝手なことをいうのはよしなさい。暁子さんというひとに、あなたは悪いことをしたんだから、これを読んで、恥じるなり反省するなりするといいわ」
 秋川が食堂から出てきて、ふたりが長椅子に掛けているのを見ると、
「あなたでしたか……」
 と言いながら、大股にこっちへやってきた。
 サト子は長椅子から立って、へどもどしながら挨拶した。
「いつぞやは、おもてなしをいただきながら、だんまりで逃げだしちまったりして……なんだとお思いになったことでしょう」
「失礼はこちらのことです……いちど、おたずねくださるということでしたから、お待ちしていたのですが、お見えにならないので、どうなすったかと、お噂していました」
 秋川はサト子の連れを捜そうというように、ラウンジのなかを見まわしながら、
「それで、きょうは?」
 神月と秋川がいっしょだと思ったのは、勘ちがいだったらしい。サト子は考えて、神月の名を出すのは控えておいた。
「二時に、ひとに会う約束をしていますので」
「二時には、まだ時間がある……じゃここでお話ししましょう」
 そういうと、ふたりと向きあう椅子に掛けた。
「愛一郎が妙なことをいうので、お名も聞かずにしまったが、あなた飯島の水上氏のお孫さんでいらっしゃるそうで」
 サト子がうなずくと、秋川は、あらたまったようすになって、
「そうと知っていたら、ご挨拶のしようもあったのに……父も私も、水上氏にはご懇意にしていただきました……水上氏は、昨年の春、シアトルでお亡くなりになったのだそうですね」
 とんでもないこったと思いながら、サト子は、つよく首を振った。
「祖父は元気でおります。秘書みたいなひとが、この七日に、氷川丸で横浜に着くことになっていますが、あちらの話が聞けるので、たのしみにしていますの」
 秋川は固い表情になって、サト子の顔を見返していたが、はっと気がついたように、
「これはどうも失礼……なにかの誤伝だったのでしょうな……それはそれは、さぞ、お待遠なこってしょう」
 おだやかに笑い流すと、調子をかえて、
「あなたは中村君をごぞんじなんだそうですね。つい、いましがた帰りましたが、あなたの噂をしていました。まだ、お小さかったころの話などを……」
「このごろ、よくお逢いしますが、知り合いというほどの知り合いでもありません。どうして、あたしの子供のときのことなんか、知っているのかしら」
「中村君は、いぜん飯島に住んでいましたから、ごぞんじのはずなんですが」
 そう言われれば、遠いむかしの記憶の中に、中村に似た、いかつい顔があったような気がするが、はっきりと思いだせない。
「そうだったかしら。おぼえていません」
「海軍にいるころは、軍艦にばかり乗っていて、一年にいくどというほどしか、帰って来なかったから、おぼえていらっしゃらないかもしれないが、中村君のほうでは、忘れられないわけがあるんです。そもそも、飯島に新婚の家庭を持つようになったのも、水上さんの周旋だったし、海軍が嫌になって退役してから、神奈川県の警察に勤めるまで、水上さんの助力で、長い失意の生活をささえていたような事情もあって、中村にとって水上さんは、古い言葉ですが、再生の恩人ともいえるようなひとだったんです」
「でも、中村さん、一言も、そんなこと、お話にならなかったわ」
「あのとおり、人づきは悪いですが、あれで心のキメのこまかい、親切な男です。あなたのことを親身《しんみ》に心配していました。あなた、ご両親がお亡くなりになって、荻窪の奥で一人で暮していられるんだそうで……それから、いまなすっていらっしゃる、ファッション・モデルのことなんかも……」
 行く先々で待伏せをしたり、見当ちがいな忠告をしたり、みょうにうるさいひとだと思っていたが、これでいくらか謎はとけた。むかしのお祖父さんの関係で、その孫に厚意をしめそうとするのはいいが、なんのために、他人の生活に立入って、こまかいところまで気をつかうのかわからない。
「ひとり暮しは、もう長いことですから、心配していただくようなことはないんですけど」
「それはそうでしょうとも……中村君も言っていました。めずらしいほど、しっかりしていられるって……あなたほどの方が、生活ぐらいに負けるようなことはないでしょうが、中村君が心配しているのは、べつなことらしい。あなたのごぞんじない、いりくんだ事情のことで……」
 ボーイがサト子のそばへやってきた。
「水上さま?」
「水上は、あたしです」
「神月さまからお電話で、まもなくお見えになるということでございます」
 サト子が神月と逢う約束になっていることが、それでふたりに通じると、秋川と愛一郎は、ありありと不審そうな表情をうかべて、サト子の顔をながめた。
 隠すつもりはなかったが、言いだす折をうしなって、ひどく気まずいことになった。どんな用件で神月に逢うのかと、聞いてくれるようだといいのだが、お行儀のいいひとたちなので、中村のように立入った質問をしないので困る。今日の会合のテーマは、生活相談といったようなことだが、相手が神月では、どんな誤解をうけるか知れたものではない、他人の思惑《おもわく》など、すこしも気にしないで通してきたサト子だが、秋川だけには悪く思われたくない。へんな誤解でもうけたら、死んでも死にきれないような気がする。秋川や愛一郎の不審をとくためにも、そのへんの事情をはっきりさせておくほうがいいと思って、神月がやりかけているグラス・ファイバーの宣伝の仕事と、さっきモデル・クラブの事務所で聞いた、アメリカ・ビニロンのモデル募集の話をした。
 秋川は苦笑しながら、
「神月という男は、なんということもなく翼賛会の総務にまつりあげられたほか、仕事らしい仕事もせず、あの年になるまで、ノラクラと遊び暮していた徹底的な遊民なんですが、あの男に、そんなむずかしい仕事ができるのかな……それで、ビニロンのほうには、契約書のようなものがありましたか」
「日本文のと英文のと」
 秋川は煙草に火をつけ、沈思するおもむきで、長い煙をふきだしていたが、いつものつつしみを忘れたように、
「サインなすった?」
 と、だしぬけに強い調子でたずねた。
 おだやかすぎる秋川というひとに、こんなはげしいところがあるとは、思ってもいなかったので、サト子は気《け》おされて、
「いいえ」
 とだけ、こたえた。秋川は眉をひらいた明るい顔になって、
「あなたほどの聡明な方が、わけのわからない契約書に署名するような、いいかげんなことをなさるはずがないから」
「おほめにあずかって恐縮ですけど、気分まかせってとこで、深く考えてやったことじゃ、ないんです。ただ、なんとなく気がむかなかったから……あたしには、そんなとき、それはまちがいだと、教えてくれるような友達もないんです」
「そうとは限らない。あなたのために、よかれと骨を折っているひとも、あるかもしれませんよ」
 サト子は秋川の顔を見た。秋川は笑いながら首を振った。
「私ではありません」
「中村さんですの?」
「中村君も、そのひとりだが、中村君ともちがいます」
「その神さまみたいなひと、どこに隠れているんでしょう? 中村さんなんかの口だと、あたしはいま、なにかたいへんなことになっているらしいのですけど、こんなときに飛びだしてきてくれるんでなくっちゃ、なんにもなりませんわね」
「出てきても来なくとも、やるだけのことはやっています……ともかく、外地に行く契約に、サインをしなかったのはよかった……それは、いろいろなものから離れて、あなたがひとりになることだから……」
「でも、これからは、どうなるかわかりませんのよ。あぶないと思っても、飛びつかずにいられないような貧乏もあるものですから」
 秋川は、いつもの思いの深い目つきになって、
「あなたは、貧乏どころか、たいへんなお金持なのかもしれません」
 と宥《なだ》めるように言った。それがサト子の耳に、いかにもそらぞらしくひびいたので、すっかりやられて、ものを言う元気もなくなった。
 愛一郎が、注意するように秋川にささやいた。
「パパ、神月さんがきましたよ」
 サト子はぎょっとして、クロークのほうへ振り返った。
 アメリカでは夜会服にもなっているグレーのジャケットに、タキシード用のトルウザース。襟にマリー・ゴールドの黄色い花をつけ、神月がゆっくりとこっちへ歩いてくる。
 歳月の力も、神月には作用しえなかったのだとみえる。どう数えても五十六七になっているはずだが、小皺ひとつなく、髪も口髭も黒々とし、唇は血の色がすけて、少年のような無垢の美しさをたたえていた。
 神月には三人の組合せが意外だったらしく、ひととき足をとめてこちらをながめていたが、秋川がうなずいてみせると、すらすらとサト子のそばへやってきて、
「水上さんですね?」
 と念をおしながら、ほっそりとした、白い手をさしだした。
「おばさまとは、古くからの友だちです……そういえば、お若いころにそっくりだ」
 神月の手が、宙に浮いたままサト子の手を待っている。戦前、鎌倉の浮気な女たちが火遊びに現《うつつ》をぬかした伝説の男の手は、心やすくも親しそうにも、そう、やすやすと握れるものではなかった。
 サト子は、しびれるような思いで、そっと神月の手にさわると、神月は横向きにソファにかけ、それがひとつのポーズになっている優美なかたちで、秋川に、
「こちらと懇意だとは、知らなかったよ」
 と沈んだ調子で言った。
「水上氏とは、おやじの代からのおつきあいだ。お孫さんにお会いしたのは最近だが」
 そう言うと、神月の襟の花を見て、
「ドレスアップして、どこへおしだす?」
 と笑いながらたずねた。
「霞山会館で、バイヤーたちのハーロイン(万霊節)のパァティがあるんだ」
「バイヤー? なんでもいいさ。忙しいのは結構だよ」
「そちらさまは?」
「食事をすまして帰るところだ」

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