なかったが、二た月ほど仕事から遠のいて、あらためて反省してみると、仕事の面はともかくとして、生活そのものは、いいかげんで、とりとめなくて、われながら、うんざりしてしまう。なんでもいいから、もっとまともな職業につきたいと思って、夫婦別れをした鎌倉の叔母の主人……というのは、かつては叔父だったこともあるひとだが、それが鉱山保安局の係長ぐらいのところにいるので、就職の相談に行くと、叔母との長々しい離婚訴訟のあとなので、あまりいい顔はしなかったが、川崎の鉱山調査研究所に雇員のあきがあるから、紹介してやってもいいと言ってくれた。
 それはありがたいのだけれども、給料は六千円未満ということだから、荻窪から川崎まで通うとすると、交通費その他をひけば、サト子ひとりが食べるのがせいぜい。とても、お祖父さんを引取って、世話などしてやれそうもないので、その件は保留しておいてもらうことにした。
 今日のカオルの話しぶりでは、近く横浜に着くのは、お祖父さんではなくて、有江という代理人らしい。それがほんとうなら、お祖父さんの世話をするという心配がなくなったわけで、このへんが、まともな職業につくチャンスだとも思われるのだが、身分不相応な、不時の収入に甘やかされてきた身で、いきなり、六千なにがしの給料だけで、生活してゆくことはむずかしい。生活を切りかえるにしても、右から左というわけにもいかない。それにはそれだけの準備もいれば、心がまえもいる。もういちどだけ、ファッション・モデルをやってからでも遅くはないようだ。神月はどんな話をするつもりなのか知らないが、その前に、こちらの話を聞いてみるのも無駄ではなかろう。
「どういうことだか、聞くだけは聞いてみよう」
 サト子は、思いきり悪く、町角の歩道に立って考えていたが、あいまいな身振りでドアを押すと、そろりと内部《なか》へはいった。
 カーテンで仕切った、仮縫いをする狭いところに、新人らしい、なじみのない顔が三つばかりおしあって、サト子がはいってきたのを見ると、話をやめて、いっせいにジロリとこちらへ振り返った。
「マネジャー、いないのかしら?」
 ファッション・ショウのステージから抜けだしてきたばかりというような、突飛なフロックを着た吊目の娘が、あしらうような鼻声でこたえた。
「さあ、どうでしょう……事務のひとなら、奥にいますけど」
 なじみがないばかりでなく、サト子の直感では、ここにいる三人はファッション・モデルではないらしい。モデルになるくらいの娘は、どんな新人でも、どこかしら、身体の表情を持っているものだが、この三人のスタイルはひどく崩れていて、そういう感覚のひらめきは、どこからも感じられない。そればかりでなく、この顔は、夏の終りに、鎌倉の美術館のテラスでやりあったショウバイニンに、どこか似ているような気がした。
 ハンガーに掛けながした仮縫いの服の間から、サト子たちがマネジャーと呼んでいる天城《あまぎ》という事務員が顔をだした。
「ああ、水上さん」
 天城は、キビキビ動くのが、この世の生きがいだというように、そのへんの椅子をおしのけながら、サト子のそばへやってきた。
「お電話だったもんだから……」
 気がないので、われともなく切口上になったが、あんまりだと思って、
「どうも、わざわざ」と言い足した。
 天城は稜《みね》の高い鼻をそびやかすようにして、ジロジロとサト子のようすを観察しながら、
「やってくるところをみると、モデル商売、いやになったというわけでもないのね」
 飾窓のそばの事務机のほうへ行って、皮張の回転椅子におさまると、天城は、もっともらしい顔になって、
「仕事をする気、あるの? 大矢シヅの話だと、モデル商売が嫌になって、お役所勤めをするようなことを言っていたけど」
 お役所勤め? 大矢シヅがどうしてそんなことを知っているのか、サト子には理解できなかった。
「きめたってわけでもないのよ。それで、どういう話なんでしょう」
 天城は薄笑いをしながら、
「話によっては、やってやってもいいって? それはそうでしょうとも。たいへんなお金持になるとか、なりかけているとか、そんな評判だから」
「あたしが? 誰がそんなでたらめ言ったんです? あたしがそんなお金持なら、モデルなんかサラリとやめているわ」
「アメリカのビニロンと技術協定をしている、ある会社の宣伝の仕事なんだけど、東京を振出しにして、大阪と京都と……それから香港《ホンコン》、シンガポールをまわって、バンコックまで行くの。二十人ばかりのレヴュウをサイド・ショウにして……すごい話でしょ」
 天城の言うところでは、中東と近東で売込みに失敗したアメリカのビニロン・ジュポンの製品を、日本でマレーやタイに向きそうなものにつくりなおして、東南アジアへ売込もうという企画らしいが、西ドイツからグラス・ファイバーを輸入している会社が、おなじころ、大仕掛けな宣伝をはじめるので、素質のいいモデルがあちらこちらでとりあいになっている、というようなことだった。
「グラス・ファイバーのほうは、山岸カオルというひとがマネージしているんだそうだけど、あなたのほうにも、なにか話があったでしょう」
 あったと言えばいいのか、なかったと言えばいいのか、とっさに判断しかねたが、なにも、いちいち本当のことを言う必要がないと思って、どちらともとれるような返事をしておいた。
 天城は、ファイルから和文と英文の契約書を二通とりだすと、英文のほうを手もとにとめ、邦文タイプで打ったほうをサト子の鼻先につきつけた。
 契約書には、六十日の契約で、ギャラの日立《ひだて》は、内地が三千円。外地は、ほかに、一日、二千円の外地手当のようなものがつき、交通、宿泊、アクセサリー、靴、すべて会社持ち……往復とも旅客機で、契約と同時に、三万円前渡しすると書いてあった。
「どお? グラス・ファイバーより、条件がいいでしょう?」
 そう言うと、奥の三人のほうへ振り返って、
「あのひとたちも、むこうを蹴って、こっちへ契約したわ」
 神月のほうはどういう話なのか、聞いていないからわからないが、契約書に書いてあるかぎりでは、一流のファッション・モデルより、はるかにいい条件になっているうえに、三万円の前渡しは、サト子にとっても、ちょっと抵抗できないような魅力があった。
 天城は、手もとにとめていた英文タイプのほうを、押してよこしながら、
「サインなさるといいわ。前渡金《アドヴァンス》をお渡ししますから……英文のほうは、ローマ字で」
 サト子は、なんということもなく、英文の契約書を手にとってみた。
 サト子の女学校時代は、戦争も、とりわけひどい時期で、英語どころか、国語さえ満足に勉強をしたことがなかった。初年級のリーダー程度ならともかく、ぬきさしのならない商用英語で綴った契約書など、読めようわけはない。
 サト子はあきらめて、ペンを借りてサインをしかけたが、そのとき、あなたは、これから、えらいやつに独力でたちむかうことになるといった、いつかの中村の言葉が、天の声のように耳のそばで鳴りひびいた。
 つづいて、いままで思いだしたこともなかったある情景が、ふいに、こころにうかんだ。
 この春ごろ、いつものように、坂田省吾が牛車を曳きながら、無駄話をしにきた。ファッション・モデルというものは、仕事があるたびに、契約書をとりかわすのか、というような話がでたとき、坂田省吾が、こんなことを言った。
「東南アジアであったことですが、マレー語の契約書のほうは注文書《オーダー》で、英文のほうは、鉱業権譲渡の承諾書だったそうです……これからもあることですが、納得できないものには、絶対に署名しないようになさい」
 あのとき、坂田はなにを言うつもりだったんだろうと考えているうちに、坂田の言った言葉の重みに胸をうたれて、はっとわれにかえり、理解も納得もしないものに、署名することはないと思って、ペンを置いた。
「これは、邦文タイプで打った契約書と、同文なんでしょうか」
 天城は、なんともつかぬ冷酷な表情をしながら、
「邦文タイプのほうは、英文の翻訳だから、同文にちがいないでしょう。あのひとたち、みなサインしたわ」
「あの方たちはそうでしょうが、あたし、こんなむずかしい英文は読めないから」
「あなたって、思いのほか疑り深いのね。それじゃ、あたしたちのすることが、信用できないと言っているみたいじゃないの」
「そういう意味じゃないけど、読めもしないものに、サインするわけにはいかないわ……誰かに読んでもらいますから、きょう一日、拝借して行っていいかしら」
 天城は、怒った顔になって、サト子が手に持っていた英文の契約書をひったくると、荒々しくファイルの中へ投げこんだ。
「契約の内容は、会社の機密なんですから、お貸しするなんてわけにはいかないのよ……せっかく来ていただいたけど、ご縁がなかったわね……でも、まだ二三日、余裕がありますから、サインする気になったら、また、いらっしゃい」
 ひどく後味《あとあじ》が悪い。じぶんでは、さほど理屈っぽい女だと思っていないが、やさしく話をすることができないので、みなを怒らせてしまうらしい。
 事務所を出て、六丁目の『アラミス』の前まで行くと、葉を落したプラタナスの街路樹のそばに、どこかで見たことのある車が置いてあった。いつかのウィルソンという男の車に似ているようだが、内張《うちばり》の色がちがう。考えているうちに、鎌倉の近代美術館から、扇ヶ谷の秋川の家まで乗って行った車だったと思いついた。そういえば、愛一郎と並んですわった操縦席のシートのぐあいに見おぼえがあった。
「神月は、秋川なんかといっしょなんだわ」
 愛一郎は神月伊佐吉を憎んでいるようだが、どういう関係にあるのか、秋川は、毎月、神月に生活費の仕送りをし、神月が銀座のバーやレストランで使っただけのものは、文句もいわずに払ってやっているということも聞いている。秋川が神月といっしょに食事をするなんてのは、ありそうなことだった。
「神月なんか、どうでもいいけど、秋川や愛一郎に会えるなら、うれしいみたいだ」
 ひっそりとした秋の風景のなかで、秋川と対坐したひと夜の楽しい思い出は、いまも心のまんなかに場をとっている。秋川氏はお行儀がよすぎ、どこか、よそよそしいところがあるが、話している間じゅう、気持が落着いて、心の調和といったようなものを感じさせる。もういちど、おだやかな人柄の紳士と対坐してみたいとねがっていたが、こんな折に秋川に会えるのかと思うと、気持がはずんできて、ひとりでに笑いだしそうになる。
 ガラス扉を押して、クロークにコートをあずけると、ボーイ長らしいのが、見さげはてたような目付で、サト子のほうへやってきた。
「どなたさまに?」
「神月さんに」
 ボーイ長は冷淡にうなずいた。
「うけたまわっております。まだ、お見えになっておりませんが、どうぞ、こちらで」
 そう言いながら、グリルにつづく朱色の長椅子のあるところへ案内した。
 寒々としたラウンジには、若い男女の一対がさしむかいになって話しこんでいるきりで、神月の姿はなかった。
「きょう秋川さんが、おみえになっていらっしゃるんでしょ?」
 秋川の名をいうと、ボーイ長は、とたんに謹んだようすになって、
「ダイニングで、食事をなすっていらっしゃいます」
「おひとり? おふたり?」
「いつものように、ご子息さまと、それから、お客さまが、おひと方……なんでしたら、あちらへ?」
「ここでお待ちするわ……愛一郎さんを、ちょっと、どうぞ」
「あなたさまは?」
「鎌倉の飯島、と言ってください」
 ボーイ長は会釈をして、食堂のほうへ行くと、すぐ愛一郎がラウンジへ出て来た。うしろに中村吉右衛門が、ひき添うような恰好でついている。
 愛一郎は、サト子のそばへやってくると、なつかしそうに手をとって、
「とうとう、つかまえた……待ちぼうけをくわした罰に、これから家へひっぱって行きます。いいでしょう?」
 と、言いながら、身にそなわった品を失うほど、
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