に腰をかけ、一時間ほどおしゃべりをして行く。
門の前で、重々しく長啼きする、牛の声を待っている楽しさといったらなかった。大地から掘りだした木の根っこのような無愛想な青年だが、すこしでも美しく見せたい、よく思われたいというので、仕事にも張りあいができ、いろいろと欲をかいたおぼえがある。
「それから秋川氏……」
秋川というひとを好きなのかどうか、よくわからないが、さほどでもない服を、しみじみとほめてくれたので、うんと稼いで、恰好のついたドレスの一枚もつくって、秋川に見てもらいたいと思ったこともあった。
こんな、す枯れたような女になってしまったのは、愛したいひとも愛されたいひともなくて、あまり長いあいだ一人で暮していたからかもしれない。世の中のことは、すべて、釣合いから成り立っているものだから、ひとりだけで、生きて行こうなどと考えると、思いもかけないような罰をうけることがあると、誰かが言っていた。いま受けているのは、すると、高慢の罰といったようなものなのだろうが、生活に張りあいをつけるために、恋愛をしなくてはならないという理屈は、よくのみこめない。
調子の狂ったようなノックの仕方をして、お八重さんというアパートの差配の娘が、ドアの隙間から幅の広い顔をのぞかせた。
「あら、居たのね……サト子さん、あのお嬢さま、また、いらしたわ」
一年ほどのあいだに、六度も勤めを変えたといっている。ぶよぶよした、しまりのない感じで、二十五にもなっているというのに、子供のような舌っ足らずなものの言いかたをする。
「お嬢さまって、どこのお嬢さま?」
八重は、あらァと顎をひいて、
「うちのパパの助《すけ》、じゃ、お話ししなかったのね……あなたに会いたいと言って、きれいなお嬢さまが、この一週間ほど、一日置きくらいに訪ねていらしたの」
「聞いていなかった……それで、いま?」
「玄関で、しょんぼりしているわ」
ドアにつかまって、クニャクニャと身体をくねらせながら、
「あんたって、部屋にいたためしがないんですもの。あたし、すっかり同情しちゃったわ……二十歳ぐらいかな。生れてから、いちどもパーマなんかかけたことのないような、クセのない髪をサラッとおさげにして、ひと掛け三千円もするような『ランヴァン』のレースのリボンを、頭のうえでチョンと結んでいるというスタイル……」
「あなた、しゃべりだすと、とまらないみたい」
「あたし、どうせ、おしゃべりよ……あれは、日本画か、お茶のお稽古《けいこ》をしているひとなのね……パアッとした色目の友禅の着物に、木型《きがた》にはめたような白足袋をキチンとはいて、ごめんください、なんて言いながら、すらすらはいってくるの……昭和のはじめごろのような、時代な着付なんだけど、それが、なんともいえないほどシックなの……あまり、すばらしいんで、キャッと言っちゃったわ」
「そんなお嬢さま、おちかづきがなかったわ。なんとおっしゃる方?」
「久慈って言っていたわ」
久慈暁子というのは、鎌倉の警察へおしかけて行って、偽証までして愛一郎を庇ったという、あの突飛な娘だった。愛一郎や中村から聞いて、ようすは知っているが、どう考えても、縁のなさそうなひとが、なんのつもりで、そうもしげしげと訪ねて来るのか、サト子には理解できなかった。
「サト子さん、やさしいみたいだけど、こわいところもあるのね……おねがい、会ってあげて……追い帰したりしちゃ、かあいそうよ。いいでしょ、ここへお連れするわね」
「ちょっと待って」
いぜん、この部屋に住んでいた女たちの落書のあとは、ペンキで上手に塗りこめてあるが、ベッド・カヴァーのあやしげな汚染《しみ》にも、壁にニジリつけた煙草の焼けあとにも、隠そうにも隠せない自堕落な生活のあとが、そのままに残っている。
「お会いしたいけど、ここじゃ、困るわ」
八重は、気やすくうなずいて、
「あたしの部屋でよかったら、お使いなさい。ご案内しておくわ。すぐ来るわね」
そう言うと、スリッパを鳴らしながら階下へ降りて行った。
八重の部屋になっている庭に向いた六畳へ行くと、八重と笑いながら話していた、あどけないくらいのひとが、居なりにこちらへ振り返って、大きな目でサト子を見た。
「想像していたとおりの方だったわ」
八重が、名残りおしそうに立って行くと、暁子は、サト子が坐るのも待たずに、
「あたくし、暁子……どんなにお目にかかりたかったかしれないの」
と、甘えるような口調で、言った。
「ごめんなさい。知らなかったもんだから」
「そんなこと、なんでもないわ。あたくしの家、木挽町……歩いたって十五分よ。お会いできるまで、いくどでも来るつもりでしたの」
「そういうことだったら、ちょっと書き置いていってくださればよかった」
暁子は、首をかしげて、
「そうね。そうだったわ……そんなこと、とっても、まずいんです。パパやママに、お前、すこし遅れているよって、よく言われるわ」
そう言いながら、恥じるふうでもなく、おっとりと笑ってみせた。
サト子は、こんな清潔な肌の色も、こんなによく澄んだ目の色も、生れてから、まだいちども見たことがなかったと思い、かねて夢想していた、この世の美しいものにはじめて出会ったような気がし、ひとりでに動悸がはやくなった。
浅間な庭の植木棚のサボテンの鉢が、風に吹きまわされ、いまにも落ちそうに傾《か》しいでいるが、そんなものに眼をやる暇もない。このひとと、何時間も何時間も、こうして話していられたら、どんなに幸福だろうと思いながら、うっとりと暁子の顔をながめていると、暁子は退屈になったのだとみえて、
「どうして、だまっていらっしゃるの。暁子、お話ししちゃ、いけないかしら」
と、つぶやくように言った。
サト子はヘドモドしながら、
「そのお召、あまりいい色目なので、見とれていたんです」
暁子は、お辞儀をするようなコナシで、
「おほめをいただきまして、ありがとうございます……でも、すこし、子供っぽいとお思いにならない? パパもママも、あたくしを、いつまでも子供のままにしておきたいんですって……あたくし、ずいぶん損をしているんですのよ。絵を描いたり、踊りをおどったり、ブラブラ遊んでばかりいるもんだから、いつまでたっても、発達しないの」
ふっと、思いだし笑いをして、
「ほんとうのことを言いましょうか。ほんとうは、お顔を見に来たの……あなた、近々《ちかぢか》、秋川のおじさまと結婚なさるんですって? 愛一郎さんのママになるかた、どんな方かと思って、暁子、拝見にあがったわけ」
秋川と結婚するだろうなどと、どこから聞きこんだかしらないが、あまりいい気持がしない。ひょっとすると、愛一郎が、そんなことを言ったのではないかと思って、それとなく、さぐりをいれてみた。
「その後、愛一郎さんには、お会いしないけど、なにか、あたしのこと、おっしゃっていらしたかしら」
暁子は、身体ごと大きくうなずいて、
「ええ、あなたのお噂ばかりよ……暁子、運が悪かったの。あの日、飯島の家にいたら、愛一郎さんを、クラゲだらけの海で、泳がせるようなことはしなかったでしょう。代れるものなら、暁子、代りたかったわ」
そういうと、急に衰えたようになって、ぐったりと身体を崩しかけた。
サト子はおどろいて、暁子のそばへニジリ寄って、肩へ手をまわして抱いてやった。
「どうなすったの。お冷水《ひや》でもあげましょうか」
暁子は、なんとも言いようのない、あわれな微笑をうかべながら、起きなおって、
「ごめんなさい。病気というわけでもないの。気候のせいでしょう。ときどき、こんなふうに、くらっとすることがあるの……お顔を見られたから、これで本望よ。おいとまするわ」
サト子は、あわてて話題をさがしながら、ひきとめにかかった。
「秋川さん、お元気でしょうか。いちど、お伺いしなくちゃならないんですけど、バタバタして落着かないもんだから、お伺いできずにおりますの……愛一郎さんには、ときどき、お会いになる?」
「あれっきりよ……あたくし、お会いしないことにしましたの。辛いけど、そうきめたの」
ぼんやりと庭の植木棚のほうをながめていたが、思いきったように、膝脇に置いてあった袱紗《ふくさ》の包みをとりあげた。
「暁子、おねがいがあるのよ」
このひとのためなら、どんなことでもと、サト子は、いそいそと膝を乗りだした。
「どんなことでしょう。おっしゃってみて、ちょうだい」
「ご迷惑でしょうけど、これを、袱紗のまま、愛一郎さんに渡していただきたいんです」
と、言いながら、サト子の膝の前に袱紗の包みを押してよこした。
手にとってみると、ずっしりと持ち重りがするだけで、なにがはいっているのか、見当がつかない。
「不躾《ぶしつけ》ですけど、なにがはいっているのか、伺っちゃいけないの?」
サト子が、たずねると、暁子は、頬に血の色をあげて、
「それは手紙……のようなものなの」
と、消えいるような声でこたえた。
恋文か……それにしても、ずいぶん書きためたものだと思いながら、サト子は、同情する気持になって、暁子の顔を見まもっていると、暁子は、だしぬけに、
「それ、返していただくわ」
と叫ぶように言った。とりかえした袱紗包みを胸のところにあてて、しょんぼりとうつむきながら、
「これを、愛一郎さんにおわたしすると、それっきりになってしまうの……それはもう、暁子には、わかっているんですけど……」
すっかり取乱して、サト子になにか訴えかけるのだが、サト子は言うことがないので、口をつぐんでいた。
「これが、あたくしと愛一郎さんを、今日まで、つないでいてくれたんですけど、こんなものにたよっているのでは、みじめでやりきれないの。愛一郎さんだって、こんな暁子、好きじゃないでしょう」
いっこうに通じないことを、くりかえしくりかえし語っているうちに、気持が落着いたのか、曇りのない、さっきの澄みきった顔になって、
「迷うのは、やめました。やはり、渡していただくわ」
と、キッパリとした口調で言った。
「お預りします。いつ、お伺いできるかわからないけど、それで、よろしかったら」
「ひと月あとでも、半年のあとでも、ご都合のよろしいときに……」
ちょっと言葉を切って、
「これを、お渡しくださるとき、愛一郎さんがあたくしに会いに来てくだすったのでないことが、暁子に、よくわかったと言っていたって、ひと言、伝えていただきたいの」
と、調子の高い声で言った。
サト子は、はっとして暁子の顔を見返した。心にキザシかけた思いがあったが、それは、どういうことなのか、サト子自身にも、よくわからなかった。
旅への誘い
雨雲が垂れて、夕暮れのように暗くなった西銀座の狭い通りを、風速十五メートルの強風が、急行列車のような音をたてて吹きとおっている。
サト子は、ビニールのネッカチーフに包んだ暁子からの預りものを、ぎゅっと胸のところへおしつけ、風に吹き飛ばされながら、八丁目から六丁目までの間を、いくども往復して時を消していたが、なかなか時間が経たない。もういいころだと、喫茶店の時計をのぞいてみると、やっと正午をすぎたばかり。約束の時間までに、まだ一時間以上もあるが、身体をまげて歩いていたので、腰のあたりがズキズキと痛んできて、あてどもなく風の中を歩きまわるのが、我慢ならなくなった。
七丁目の角に、サト子たちのモデル・クラブの事務所がある。「モードの店」とガラスの切抜文字を貼りつけた飾窓の上で、フランスの三色旗まがいの派手な日除《ひよけ》が、吹きちぎられそうに動いている。
出がけに、モデル・クラブの事務所から電話で、いい仕事があるから、すぐ来いと言ってきた。最近、どこかに大きなファッション・ショウがあるらしいことは、大矢シヅも言っていたし、曽根というバアのマダムなどは、こちらの意志もたしかめずに、否応なしにおしつけてしまいたいような口ぶりだった。
ファッション・モデルという職業になじんでいる間は、さほどにも感じ
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