に」
 挨拶をすると、芳夫は風に飛ばされながら、いま来たほうへひとりで帰って行った。


 三方にひらけた麻布の高台の地形を利用して、丘と谷のある見事な造庭をしている。
 サト子の部屋の窓から見える部分だけでも、二千坪はあるだろう。いちめんの芝生で、余計な木は植えていない。紡錘形に剪定《せんてい》したアスナロを模様のようにところどころに植えこみ、その間に花壇と睡蓮の池がある。芝生の中の小径《こみち》に沿って、唐草模様の鉄骨のアーチが立ち、からみあがった薔薇の蔓が枯れ残っていた。
 二階のバルコンに出ると、遠くに秩父の連峰が見え、反対の側には赤十字病院の軍艦のような白い建物が、芝生の枯色と対照していい点景になっている。
 この五日、サト子は広大な洋館の翼屋《よくおく》で、のうのうと暮していた。
 脇間のついた二十畳ほどの居間の奥は寝室で、つづきが化粧室と浴室。五メートルもある化粧室の一方の壁は、全部ローブをおさめる隠し戸棚になっている。両開きの大きな扉をあけると、二側になったチューブの横棒《バア》にハンガアが三百ほど掛かり、下は靴棚で、これも二百ほど仕切りがあった。
 芳夫にこの家へ連れてこられた日、あるだけのハンガアにローブが掛かり、靴棚にぎっしりと靴が詰っているところを想像して、サト子は、あっけにとられた。
 浴室は天井まで模造大理石を張りつめ、十人もいっしょにはいれるような薄緑の蛇紋石《じゃもんせき》の大きな浴槽のそばに、タオルのおおいをかけたスポンジの寝椅子が置いてある。湯上りに、ためしに寝ころがってみたら、厚いスポンジの層がサト子のからだをフンワリと受けとめ、宙に浮いているような安楽な状態にしてくれた。
「贅沢というのは、なるほど、こんなものなんだわ」
 どんなひとが住んでいた家か知らない。外国の映画では、これによく似た夢のような場面をいくどか見たが、東京の山の手に現実にこんな生活をしていた人間がいたとは、貧乏で衰弱したサト子の頭では、どうしても納得しかねた。
 次の日の朝、芳夫から電話がきた。
「いまの家、気に入りましたか」
「気に入ったなんて段じゃないわ、あまりすごいので、おろおろしているのよ」
「気に入ったら、買ったらどうです? 千万ぐらいで話がつくと思いますが」
 サト子は三万ドルの紙幣のはいっている、空色の飛行鞄のほうへ振り返りながら、この家も、買えば買えるのだと思うと、いままではたいして気にもしていなかった十三億という金の効用が、あらためて意識にのぼって、ぞっと鳥膚をたてた。
「途方もないことをいうのは、やめてちょうだい……それでなくとも、バカなことをやりだしそうで困っているんだから」
 宙に浮いている感じは、スポンジの寝椅子に寝るときだけではなくて、ここの生活自体が、雲の上の青い天界を散歩しているような、のどかなおもむきがあった。
 朝の九時、メードがそっとカーテンをあけにくる。サト子が食事をと言うと、ひとりは寝室用の細長い朝食膳を、ひとりはオレンジの果物盃《カップ》や、ジャムの壺や、生クリームや、コォフィや、焼立てのプチ・パンなどを載せた盆を持ってはいってくる。朝食膳の脚を起し、サト子の膝の上にまたがせて盆を載せ、スマートな手つきで食器の位置をあんばいし、サト子の胸にナプキンをひろげて出て行く。
 気がむけば、朝食のあとで風呂にはいる。カランをひねったりすることはいらない。なにもかも、十語以内の命令でカタがつく。インター・ホーンのスイッチをあけて、バスを、というと、メードがなにもかもやってくれる。
 芳夫の話では、コックとコックの下働きと、メードがふたり……つまり四人ひと組になってホテルから出張してくる仕掛けなのだそうだが、こんなふうに行き届きすぎると、なにもする気がなくなる。
 最初の二日ほどは、夕食は本館の食堂へ食べに行っていたが、それもやめた。食べる心配がないときまると、あんなにも叫びつづけていた胃袋が急にだまりこんでしまい、思うほど食べものを受付けてくれない。いまの東京では、外へ出ても、これ以上の贅沢があるわけはないと思うと、出掛ける気もしない。無為の生活のなかで、人間がだんだん物臭くなって行く経過がわかって面白くもあるが、おかげで寝つきが悪くなり、はやく有江のほうの話がきまって、ほんとうに金持になればいい……などと考えるようになった。
「夕食は、どちらで?」
 とメードが聞きにきた。
「ここへお持ちいたしましょうか」
 サト子は煮えきらない調子で言った。
「ちょっと待って……」
 もったいぶっているわけではない。
 ふやけたような生活をしているうちに、あたまのなかが甘ったるくなり、決断力が鈍って、ものごとをハッキリときめにくくなった。
「どうしようかしら」
「やはり、お持ちいたしましょう」
 それでも困る。こんなことをしていると、肥るばかりだ。おっくうだが、すこしは運動をしなくてはなるまい。それで、やっと気持がきまった。
「きょうは、食堂へ行きます」
 広大もない衣装戸棚に一着だけ吊ってある一帳羅のカクテル・ドレスに着かえると、サト子は朽葉色の絨毯《じゅうたん》を敷いた長い歩廊を、本館の食堂のあるほうへ行った。「歩き方コンテスト」の賞品にもらったカクテル・ドレスの裾をひらひらさせ、気取ったポーズで長い廊下を歩いて行く。ファッション・ショウのステージでステップするときのような愛嬌は、みじんもない。映画に出てくる伯爵夫人のように、高慢につんとすましている。
「見ているひとなんかいないのに……あたしって、なんてバカなんだろう」
 くだらないと思ってはいるのだが、こういう環境にはまりこんでから、急に気位が高くなったみたいで、メードたちの前へ出ると、われともなくこんなポーズをとってしまう。
「やれやれだわ」
 趣味のいい家具を置いた明るいサロンを二つ通りぬけると、その奥に食堂がある。
 むやみに天井の高い広々したホールで、ゆっくり四十人はすわれようという長い食卓の端に、一人前の食器が寒々と置いてある。
 最初の夜、シャンデリヤの光りのあふれる森閑とした大食堂で、ぽつねんとひとりで食事をする様式の威厳に圧倒されたが、いまは、これも悪くないと思うようになった。
 食卓につく。ありがたいことに、今夜は食欲がある。
 若いほうのメードが、オードゥヴルの皿を持ちだしながら、
「お写真、とっても、よくとれていましたわ」
 と、そんなことを言う。
 慣れなれしいのが、サト子の感触を害す。たしなめるつもりで、じっと顔をみてやる。
「それは、なんの話?」
「きのうの新聞、ごらんにならなかったんですか。日本のロックフェラー嬢って……」
 とうとう新聞に出たらしい。きのうあたりから、メードたちがみょうに興奮して、なにか言いたげだったが、それが原因だったのだと、サト子は理解した。
 ファッション・モデルのアルバイトに、テレビのスポット・モデルをしていたことがある。原板は捜せばどこにでもあるのだろうが、醤油の瓶を抱いている写真なんかだったら、あまり派手すぎておもしろくない。
「むかしから、新聞は読まない趣味なの……どんな写真でした?」
「すごいイヴニングを召して、笑っていらっしゃる写真でした」
 その口なら、まあ悪くない。それにしても、メードたちはすこししゃべりすぎるようだ。自分だったらこんな躾《しつけ》はしない。給仕は男のほうがいいかもしれない。食堂も、こんなふうに広すぎるのは落着きがない……
 食堂の平面図がつぎつぎに目にうかぶ……一方をガラス壁にし、新芸術派のチューブの家具を、巧まぬ粋を見せてあちらこちらに配置したところで、長いコードをひきずりながら、メードが電話器を運んできた。
「もしもし、サト子さん?」
 山岸芳夫の姉のカオルだった。
「しばアらく……ここにいること、よくわかったわね」
「そこへ連れて行ったのは芳夫なんでしょ? わからないわけ、ないじゃないの」
「なにかご用でした?」
「お聞きしたいことがあって……」
 そこで声が途切れた。
「神月……ゆうべ自殺したのよ、ヴェロナールを飲んで……あのバカおやじ、頬紅なんかつけて、お化粧をして死んでたわ」
「思いもかけなかったわ。この間、お目にかかったばかりなのに……」
「あなたがお悔みをいうことはないでしょう」
「あたしだって、神月さん、好きだったのよ」
「ありがとう……神月はあたしの父だったの。最近、わかったの……怒鳴りこみに行ったんだけど、抱きついて泣いちゃったわ……あたし、なにを言ってるのかしら?」
「伺っています……もっと、おっしゃって」
「あなたって、いいひとだわ……いずれ、わかるでしょうけど、神月とあたしのしたこと、悪く思わないでね……神月は、悪党というのじゃないのよ。もういちどだけ浮びあがりたいと思って、あせっただけなの……ブラジルに、先代が買った土地があって、神月はそこで農園をやりたいので、秋川に五百万円くらい出させたかったんだけど、言いだせないもんだから、死んだ夫人《おく》さんの古い恋文で愛一郎をおどしつけて、なんとか、ネダリ取ろうと思ったわけなのね」
「そのへんのことは、あたしも、うすうす知ってるわ」
「うちあけたところ、神月は死んだ夫人さんの手紙なんか、持っていなかったのよ……あることはあったんでしょうけど。飯島の家の屋根部屋かなんかへほうりあげたきり、どこにあるのか思いだせなかったの……そういう弱味があるので、押しきれなかったらしい……それはそれとして秋川が、だまってお金を出してくれたら、パーマーなんかと組んで、あなたのものを裏から剥ぎとりにかかるようなあくどいことは考えなかったでしょう」
「いろいろなひとが、なにかいうけど、どういうことなのか、よくわからないのよ」
「あなたが神月に会った日、秋川と愛一郎がその席にいて、うまいところへ話がいきかけたので、神月がパーマーのほうをキッパリと断ったら、間もなく、愛一郎が急に強くなって、その話をこわしてしまったふうなの……それだけが、自殺の原因だとも思わないけど、なぜ愛一郎が急に強くなったのか、なにか心当りはない?」
 愛一郎に届けてくれと言って、久慈の娘が袱紗包みの手紙の束を持ってきたことを話すと、カオルは考えてから、
「それが秋川の夫人さんの古い恋文だったんだわ……愛一郎も神月も捜しだせなかったものを、久慈の娘が捜しだしたというわけなのね」
「あたし、たいへんなことをしてしまった」
「あなたがどうしたというようなことじゃないわ、天命なのよ……でも、もういちど浮びあがらせてやりたかった。あたしもいっしょにブラジルへ行くはずだったのよ、もう日本へ帰って来ないつもりで……ごめんなさい、長い電話になったわ……あす有江というひとが横浜に着くんですってね? 神月は死んだし、芳夫は横浜税関の監視部で調べられているし、これで二人ツブレたわけね。こうなれば山岸だってひっこむでしょうし、あとは、飯島の叔母さまと坂田だけ……秋川と中村が後押しをしているから、絶対にあなたの勝利よ」
 翼屋へ帰ると、中村と警視庁の防犯課の係官というのが、サト子を待っていた。
 いつものおだやかな中村ではなくて、ひどく冷淡にかまえていた。サト子は雲から足を踏みはずしかけているあぶなっかしさを感じながら、おずおずと中村に言いかけてみた。
「ご縁があるとみえて、よく係合いになるわね」
 中村は返事もしなかった。大学の助教授といったタイプの係官が、床の上に置いた飛行鞄《エア・バッグ》のほうを顎でしゃくった。
「この中から、なにか、お出しになりましたか?」
「さわったこともないわ」
 係官はジッパーに封印をすると、それを無造作にテーブルの上に投げだした。
「香港《ホンコン》で流している偽《にせ》ドルです。こんなものを使ったら、飛んだことになるところでした」
 そういうと、ポケットから写真をだしてサト子に見せた。
 いくつも丸卓を置いた豪奢《ごうしゃ》なホールの前景に、タキシードを着た坂田省吾が、神月と二人の外国人の間にはさまって、シャ
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