坂田の言いちがい、……言いなおし……微妙なもののなかから、坂田の弱点を発見するんです……)
才女だけのことはあって、由良は、観念して眉も動かさなかったが、芳夫のほうは、すっかり照れて、赤くなったり青くなったりしていた。非情の巻枠《リール》は、クルクルとリズミカルに回って、山岸弁護士と由良の関係や、手のこんだ二人の計画を、あけすけに披露した。そのうちに、由良の声になって、
(サト子は、いま、どこにいます? へんな女と連れになって、歩いていたようだけど……)
と、いうあたりまでくると、芳夫は、窓ぎわの、差込みのソケットのあるほうへ行こうとした。坂田の足がのびだしてきて、重いドタ靴で芳夫のきゃしゃな靴をグイと踏みつけたので、芳夫は腰をひったてることすら、できなくなってしまった。
サト子は、築地の『ヴェニス荘』というアパートにいることを聞くと、坂田は、ちょっと頭をさげて、無言で部屋から出て行った。由良は、窓ごしに通りを見おろしていたが、坂田が氷雨に濡れながら、駆けるように田村町の交叉点のほうへ急ぐのを見ると、あわてて芳夫に言った。
「はやく行って、サト子を逃して、ちょうだい……坂田に殺されてしまうわ」
踏みつけられて、手傷を負った足の甲を撫でながら、芳夫は鼻の先で笑った。
「おばさま、スリラー小説のファンだとは知らなかった。坂田がサト子さんを殺して、どうなる? 坂田はサト子さんを愛しているんです。追いかけまわすのは、そのせいなんだ……野菜を売りに出る行き帰りに、サト子さんの離屋に寄って、話しこんでいたことをごぞんじなかったのなら、威張ったような口は、きかないようになさい」
由良は、落ちこむようにソファに掛けた。
「バカな……サト子と坂田がくっついたら、それで、話はおしまいじゃないの」
女の決闘
丸の内の郵船ビルの前で中村と別れ、『レーバー・セクション』という標示の出ているところへ行くと、小石川の職安で、資格検査を受けて、労務者カードをもらって来いといわれた。
シヅを呼びだして、いっしょに職安へ行ってもらったが、英語が話せないと、時間給のひどい雑役で追い使われることになるらしい。身体がつづきそうもないので、尻込みしていると、そこの主任らしいひとが、土橋の近くの新興喫茶に、レジスターの口があるとおしえてくれた。氷雨の降るなかを、いわれたところへ行ってみると、なるほど大きな店だが、保証金が二万円いるというので、問題にもなにもならなかった。
シヅは、アメリカ・ビニロンのファッション・モデルに紹介すると言いだしたが、気がないので、サト子は断った。ガード下の小さな中華料理でつつましい夕食をし、二人で映画を見て、遅く帰った。
翌朝、まだ寝ているうちに、アパートの差配に起された。
「電報がきていますよ」
シアトル発信のラジオ電報だった。西荻窪の植木屋の気付で、宛名は、ミナカミサトコとなっている。シアトルでうった日付は、十月二十五日……すこし遅すぎるようだった。
「これは、いつ来たの?」
「昨日の夕方、坂田とかいうひとから、預ったんですがね」
坂田というと、坂田青年のことだろうが、どうして、ここにいることがわかったのか、ふしぎだった。
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八ヒアサ ヒカワマルデ ヨコハマニツク ニユウグランドニテアイタシ アリエ
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アリエ、アリエ……と口のなかでくりかえしているうちに、アメリカの北西部で、祖父が、有江というひとと共同で、鉱山の仕事をやっているという消息があったのを、思いだした。
戦後、四年目ぐらいに、祖父が弱りきって日本へ帰ってきたが、長女なる叔母は、劬《いた》わることもせずに、父を、すげなく郷里へ追いやってしまった。しょうことなく、祖父がまたアメリカへ舞い戻ってから、その話を聞いて、ひどい叔母のやりかたに、サト子は、頭に血がのぼるほど、腹をたてたものだった。
祖父は、むごい扱いをされた、娘の顔を見る気もないのらしい。水上といわずに、有江の名で電報をよこしたのは、鎌倉の叔母に知らすなという意味なのだと、サト子は判断した。
お祖父ちゃんが帰ってくる……そう思ったとたん、いいようのない、なつかしい思いが、胸にあふれ、じっと部屋に落着いていられなくなった。サト子は電報を手に持って、シヅの部屋へ駆けこむと、食事の支度をしているシヅに、いきなり抱きついた。
「あたし、やはり、ここにいられなくなったわ……おシヅちゃん、あたしのお祖父さん、おぼえているかしら?」
「忘れるわけないわ。どんなに可愛がっていただいたか! チビや、チビやって」
「お祖父さん、この八日に、アメリカから帰ってくるのよ。これが、その電報なの」
気持がはずんでき、終りは、筒抜けたような声になった。
「生きて会えるとは思っていなかったの……うれしい……あたし、もう、ひとりじゃないんだわ」
そのとき、聖路加病院の十時の時鐘が鳴った。シヅは、はっとしたように胸に手をあてた。
「あんたも、忙しくなるわね。ともかく、ご飯をすましちまいましょうよ」
そういうと、ひどくあわてて、ソソクサと飯をかっこみだした。サト子も茶碗をとりあげながら、
「はやく仕事をみつけて、せめて、お祖父さんの落着くところぐらい、こしらえておかなくちゃ……八日というと、あと一週間しかないから」
シヅは、箸の先に飯粒をためたまま、サト子の顔色をうかがうようにしながら、
「職安で仕事を捜す前に、もういちど、モデル・クラブの事務所へ行ってみたら?」
「でもねえ、モデルの仕事、気が重いのよ」
「それは、昨日も聞いたけどさ、あんたが考えているより、もっといい仕事がありそうな気がする。あたし、保証するわ」
そう言うと、下目になって、
「白状するけど、あんたを紹介してくれって、ビニロンのボスに、たのまれていたんだ」
と、哀願するような調子でつぶやいた。
「そうね、昨日までは、勝手なことを言っていたけど、もう、ひとりじゃないんだから、我儘なんて言っていられない……じゃ、これから、行ってみるわ」
シヅは時計を見ると、椅子から飛びあがって、食器をバタバタと流しへ運びはじめた。
「おシヅちゃん、なんなの?」
「これから、ちょっとゴタゴタするのよ。茶碗ひとつ、おっ欠かれたって、損だからね」
そういう間も手を休めず、サッサと部屋のなかを片付けると、テーブルや椅子を壁ぎわに積みあげた。サト子の掛けている椅子だけが、島のように一つ残った。
「だから、どうしたというのよ」
「あたしがファッション・モデルになったことが、嫉《や》けて嫉けて、しようがないもんだから、横須賀のむかしの仲間が、大勢でインネンをつけにくるんだ」
「なにになったって、あのひとたちに、関係のないことじゃありませんか」
「あいつらの世界に、そんな理窟、通らないのよ。無断で組を抜けたことを口実にして、仁義だのなんだのって脅かして、むかしのショウバイにひきもどそうというの」
サト子は、立ちかけていた椅子に腰をおろした。
「くだらない。そんなひとたち、相手にすること、ないわ」
シヅは衣装戸棚の前で、さっと服を脱ぐと、丸首シャツとスラックスの勇ましい姿になって、サト子のそばへ戻ってきた。
「立ちなよ。椅子、片付けるんだからさ」
「ここはダンナサマの席だといったでしょ。あたし動かないわ」
「あんたにまでゴテられちゃ、困るわ」
「わからないって、きめてかかっているけど、話にも、話しかたにも、よるでしょう? あたし、会って話してみるわ」
シヅは殺気だった喧嘩のかまえになって、部屋のなかを歩きまわりながら、カスレたような声でつぶやいた。
「話では、すまないことなんだよ……あいつらが集めていた赤札(軍票ドル)を、青札(本国ドル)と換えてやったら、それがガン札だなんて、ムチャな言いがかりをつけるんだから……」
正面玄関《フロント》の扉があくたびに鳴るブザーが、ほのかな音をつたえた。シヅは窓のほうへ行って、小田原町につづく通りを見おろしながら、
「神奈川県の自動車が、二台、いる……塀の前と、むこうの河岸っぷちに……八人は、いるな。骨が折れるよ……サト子さん、早く出て行って……あんたなんかにマゴマゴされると、負けちゃうじゃないのさ」
そんなことをいっているうちに、もう、廊下に靴音がきこえた。
「おシヅちゃん、来たわ」
ドアの前で、靴音がとまった。なかのけはいを聞きすましているふうだったが、そのうちに、ドスドスと乱暴にドアを蹴りつけた。シヅは、そっと戸口のほうへ行って、頃合《ころあい》をはかりながら、だしぬけにドアをあけた。
なりわいの渋味も辛味も味わいつくした、ひと目でショウバイニンと知れる、若いような老けたような女が二人、不意をくって部屋のなかへよろけこんでくると、たがいの様子がおかしいというので、男のような声でゲラゲラ笑った。
どちらも、裾まである赤鉛筆色《レッド・レッド》のコートを着ている。それを脱げば、下は喧嘩の身支度になっていることは、胸あきからトックリ・スェーターの衿が見えているのでもわかる。いい加減に笑って、笑いおさめると、目のキョロリとした、ムジナのおばあさんのような顔をした女が、
「なにさ、ひとの鼻先で、いきなりドアをあけたりして……むかしの仲間だ。もうすこし、やさしく扱ってくれよ」
もうひとりの、ずんぐりむっくりの猪首《いくび》の女は、戸口に立ちはだかって、部屋のなかを見まわしながら、
「ここは、いぜん、おれの巣だった部屋だぜ。やはり、器用に足は洗えないもんだとみえるな……モデルは看板で、ジャッキーをくわえこむのが、半商売というわけか」
肩ごしに、うしろに振り返ると、
「おシヅ、お客さんだ……どこかのご令嬢さまが、お前に、ご用だとおっしゃる」
道をあけて、お辞儀をしながら、
「お通り遊ばせ……失礼さんですが、あんたさんも、お仲間さんですか」
女たちの肩をおしのけるようにして、山岸カオルがはいってきた。
「あなたの部屋をノックしてみたら、お留守だったから、たぶん、ここだと思って……」
シヅには目もくれず、サト子にそう言いながら、壁ぎわに積みあげた椅子やテーブルを見ると、ここではじまることを察したらしく、痩立《やせだ》ちのみえる頬のあたりに、人の悪い微笑をうかべた。
「お取りこみのようね……お邪魔だったかしら」
この夏の終りに、鎌倉の秋川の家で会ったときは、頭のなかの乱れが見えるチグハグな印象をうけたが、きょうは、目のなかにしっとりした情味がつき、風が落ちて海が凪《な》いだような、しずかな顔をしていた。
黒と白だけの着付で、ネットのついたトーク型の帽子の小さな菫《すみれ》の花束が、ただひとつの色彩になっている。カオルは、ハンド・バッグのかわりにもなる、豹の皮の手套《マフ》から右手をぬきだしながら、サト子のほうへ近づいて行った。
「こんなところに、隠れこんでいようなんて、考えもしなかったわ……あのとき、ご挨拶もしないで帰ってしまったけど、怒っているわけでもないでしょう……しばらくね、握手ぐらい、しましょうよ」
サト子は、途方にくれながら、おずおずとカオルの手を握った。
「なんだか、お丈夫そうになったわ」
カオルは、首をかしげてシナをつくりながら、
「そう見えるなら、ありがたいわ。このごろ、ゴタゴタして、たいへんにはたいへんだったんだけど……」
サト子が、たずねてみた。
「あたしがここにいること、たれに聞いた?」
カオルは、この質問を予期したうえで、
「芳夫から」
と、間をおかずにこたえた。
「芳夫のタンテイ趣味には、家じゅうが悩まされているのよ……いつだったか、泰西画廊であなたを見つけて、あとを尾《つ》けたんですって……あなたがお友だちの厄介者になっていることまでしらべあげてあるの……バカよ、あのひとは」
マジマジと、シヅの顔を見て、
「飯島の……方だったわね。あたしを、おぼえていらっしゃるでしょ? 山岸のカオルよ」
戸口に立ちはだかっている女たちが、焦《
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