体を倒して、
「巻枠は、折をみて巻き戻します……勘づかれるから、マイクのはいった花瓶を見つめないようにしてください」
 と、ささやいたが、由良には、よく聞きとれなかったらしい。え? え? と聞きかえしているうちに、坂田省吾は二人のいるテーブルへやってきて、やあ、と無造作に頭をさげた。
「いつぞやは、熱海で……」
「わたくしどもこそ」
 由良は、大ホステスの風格で、椅子に掛けたまま鷹揚《おうよう》にあいさつをかえすと、子供の手首のようにくびれた二重のあごを、芳夫のほうへしゃくった。
「この間、熱海ホテルでお会いになった山岸弁護士の長男の芳夫さん……口髭なんか生やしていますが、これでまだ二十五なの。大学の法科を出て、いまお父さんの事務所で働いていられるんです」
 トックリ・セーターにジャンパーをひっかけ、アメリカものらしい、バカげて底の厚いドタ靴をはいた坂田のようすを、芳夫は髭を撫でながら観察していたが、こいつを怒らしてみたいとでもいうように、椅子から立って、悪丁寧なお辞儀をした。
「あなたが坂田さんですか。いちど、お目にかかりたいと思っておりました。私は、シアトルの有江さんの代理です……どうか、お掛けください」
 坂田は椅子には目もくれず、テーブルのそばに立ったなりで、
「いや、有江さんの伝言を伺ったら、すぐ失礼しますから」
 と、淀《よど》みのない口調で言った。
 五尺八寸くらい。バランスのとれた見事なからだつき。アメリカでは鉱山《やま》歩きばかりしていたということだが、皮膚の芯まで日にやけ、一流のスポーツマンに見る、健康そのもののような爽《さわやか》な印象を与える。
「でも、そうして立っていらしても、あなた……」
 由良は手でシナをしながら、悪強《わるじ》いにかかった。うるさくなったのか、坂田は椅子をひっぱって、テーブルと脇卓の間に掛けた。芳夫の顔に、まずいところへすわられたという、当惑の色が浮かんだ。
「それじゃ、話が遠いから」
 芳夫のほうへ陰のない笑顔をむけると、坂田は、うしろの脇卓の端に肱をかけ、長々と足をふみのばした。そのひとらしい自然さがあって、そんなようすも、無礼には見えなかった。
「ここで結構……さっそくですが、有江さんの伝言というのは、どういうことでしたか」
 由良は、子供にでもいうような調子で、なだめにかかった。
「有江さんの伝言もそうだけど、このあいだのおわびに、ごいっしょに夕食でも……」
 坂田は、ありありと迷惑そうなようすになって、
「ありがたいですが、電話でも申しあげたように、メチャメチャにいそがしい仕事をかかえているので……それに」
 強い目つきで、部屋のなかを見まわしながら、
「ここはアメリカ人のやっている店だそうですが、こういう環境に、馴染めないほうなもんだから」
「あら、そうなの」
 由良は、大袈裟《おおげさ》におどろいてみせた。
「長らくアメリカにいらしたということですが、そんなアメリカぎらいなんですか?……そうと知ったら、おもてなしの方法もありましたのに」
 口先のお愛想でつなぎながら、由良は、いきなり本題にはいった。
「有江さんのお手紙には、あなたのことが、くわしく書いてありました……カルフォルニヤの鉱山学校を卒業して、ニュウ・メキシコの鉱山で働いていらしたのだそうですね」
「古い話です」
「去年の春ごろ、日本へ帰って来て、青梅の奥で、清浄野菜の農園をやっていらっしゃるって……それほどの経験を振り捨てて、どうして、そんなことをはじめる気になったのか、私には腑に落ちないので」
「あっさりいえば、鉱山の仕事が嫌になったからです……清浄野菜をつくることは、死んだ父の夢だったので、土地といっしょに、親父の意志も相続してやったというわけです。ふしぎなんてことは、ありません」
「野菜を売って歩くのに、いまどき、牛車に積んでいくなんて、すこし変りすぎているようね……あなたは、水上から十三億の鉱業権を譲り受けた方だから、やろうと思ったら、どんなことでもできるはずなのに、そんなふうにしていると、なにか、仮装でもしているようで、おかしいわ」
 坂田は、あけっ放した顔で、はっはっと笑った。
「化けているって?……内地の生活は複雑で、たれもみな二重生活をしていますね。仮装しているように見えるなら、私の場合も、それだと思ってください……時間が惜しいから、私のほうからはじめますが、水上氏のお孫さんのサト子さん、いま、どこにいらっしゃるんでしょう?」
 由良は、とぼけた顔で、たずねかえした。
「サト子に、どういうご用なんです?」
「サト子さんは、久しく西荻窪の植木屋の離屋に、お帰りにならないということですが、急いでお目にかからなくてはならない用件があるので」
 由良は、そら出たといった顔で、芳夫に味な目くばせをしてから、
「なんでしたら、あたしがお取次ぎいたしましょう」
「アドレスを、おしえていただくだけで、結構です」
「あれは、小さなときから、フワフワと落着きのない娘でしたが、なまじっか、はんぱな職業を持っているので、私どもへ寄りつかないので、困ります」
「夏の終りごろ、鎌倉のお宅へ行っていらしたように、聞いていますが」
「間もなく、東京へ帰りましたが、どこへモグリこんでいるものやら、いっこうに……」
 坂田は微笑をうかべながら、おだやかに、おしかえした。
「はてな……すると、いま、取次いでやってもいいとおっしゃったのは?」
 由良は、ぷっくりふくれた瞼《まぶた》の間から、坂田の顔色をうかがっていたが、相手がおとなしくしているので、いきなり高飛車に出た。
「よしんば、あれの居どころをぞんじておりましても、あなたにだけは、お知らせしたくないわ。サト子の一身を、保護する意味でもね……あなたが、邪魔なサト子を、殺すだろうとまでは考えませんけれども、用心に、如《し》くはなしだから」
 坂田は、目の色を沈ませながら、じっと由良の顔を見つめた。
「私が水上氏のお孫さんを邪魔にするというのは、どういうところから割りだしたことなんでしょう?」
「根拠のないことじゃないんです……先日、有江さんが、シアトルであなたが父と約束した、鉱業権の再譲渡の件を実行したかどうか、手紙でたずねてきました」
「なんのことだか、わかりかねますんですがねえ……苗木の鉱山の鉱業権は、私が水上氏から買ったので、いまのところ、ひとに譲る意志はありません。そのことは、熱海ホテルでお目にかかったとき、かねて申しあげたはずですが」
 芳夫が、横あいから打って出た。
「有江さんの手紙には、そんなふうには書いてありませんでしたよ」
 由良が、うなずきながら、芳夫にいった。
「あなたは手紙をコピイしたひとだから、筋立った話ができるでしょう。坂田さんに、よく言ってあげてください」
「有江さんの手紙は……」
 芳夫は胸を反らすと、検事の論告のような調子でやりだした。
「水上氏とあなたが、千九百四十九年のウラニウム・ラッシュにうかされて、ガイガー計数管を持って、カナダの国境に近いほうへ出かけて行ったところから、はじまっています」
 坂田は、手をあげて、冷淡にさえぎった。
「詩ですか? 詩なら、たくさんだ。またこのつぎに、ゆっくりやってもらいましょう」
 芳夫は、自尊心を傷つけられた子供のように、えらい金切声でやりかえした。
「詩ではありません。告発の理由といったようなものです……その後、水上氏は落魄《らくはく》し、ひどい恰好で日本へ帰ってきて、恵那の奥の郷里に落着いた……ところで、そのへんの谷のようすは、水上氏の目には、アメリカで見たウラニウムの出る谷々の形相と、あまりにもよく似ている。ガイガー計数管を持ちだして、あたってみたら、すごい反応があった……というんです」
「君は、むずかしいことを、簡単にかたづけてしまう……たいした頭だよ」
「いや、手紙の受け売りです……苗木の鉱山は、三井のあとを受けて、磁気工業が砂鉄を掘っていたが、モノにならないので、ほうりだしてしまった……アメリカでは、ウラニウム・ラッシュで、えらいさわぎをしていたが、日本では、そんなことは知らない。水上氏は、六千五百万坪、七十鉱区の鉱業権を、ただみたいな安い金で取得して、川床の砂をアメリカへ持って帰って、原子力委員会へ送ってしらべてもらったら、確度十分で、売る気があるなら、七十鉱区を、一鉱区五万ドル、三百五十万ドル、十二億六千万円で買ってもいいという話になった……そうですね?」
「その通り」
「昨年の春、水上氏は、あなたと二人で氷川丸で日本へ帰ることになったが、出帆の前夜、うれしまぎれに、シアトルの宿で、酒を飲んで踊ったりしたので、心臓衰弱で倒れた……水上氏には、前から弁膜に故障があって、自分の身体のことはよく知っている。証人を二人たてて、将来、水上サト子に再譲渡するという条件つきで、鉱業権を有償であなたに譲渡した……それが、たった一ドルだというから、バカげているじゃないですか」
「一ドルだって高価《たか》い……水上氏の臨終の依頼だから、ひきうけたようなものの、正直なところ、あんなものには、一セントだって、払う気はなかった……当時の私にとって、一ドルは、血の出るような金だったから」
 芳夫の手にあいそうもないので、由良がひきとって、搦手《からめて》から仕掛けにかかった。
「この間、伺うのを忘れましたが、父の遺骸《いがい》は、どうなっているんでしょう?」
「シアトルの、日本墓地へ埋葬しました」
「お骨にして、持って帰ってくださる親切は、なかったのね?」
「水上氏は、アメリカの土になることを望んでいられました」
「サト子はお祖父《じい》ちゃん子なので、ショックを受けると困るから、死んだことは、まだ話さずにありますが、そんなことを聞いたら、さぞ嘆くこってしょう。因果な話ですわ。そうまで嫌われるというのは」
「水上氏は、お孫さんを愛していられました……嫌っていたのは、ほかの方だったようです」
「それは、あたしなのね? だから、あたしには遺産を残さなかった……これくらい簡単明瞭な話も、ないもんだわ」
 問題の核心を、由良はそんなふうにヤンワリと突いた。なるほど、こういう触《さわ》り方もあるものだと、芳夫が由良の横顔をながめているうちに、由良は、つづけた。
「父は、私に遺産を残したくないのだが、日本の遺産法では、どうしたって私の手に入るようになっているから、そんなヤヤコシイ方法で、あなたがサト子の代襲相続をなすった……」
 坂田が、けげんな顔でたずねかえした。
「ダイシュウ……とは、なんのことです」
 芳夫は、説き聞かせるの調子で、
「あなたが、サト子さんの代理になって、水上氏の遺産を相続したことをいうのです」
 底のはいった渋い声で、坂田は、キッパリとはねつけた。
「手紙に、どうあろうと、相続なんかしたんじゃない、買ったのだ。なにを考えていらっしゃるのか知らないが、十三億の遺産なんか、現実には、存在しないものなんです」
「アメリカの原子力委員会で、確度十分と折紙をつけたと聞いていますが」
 ボーイが、食事を出してもいいかと聞きにきて、ついでに、卓上灯のスイッチをひねった。その光で、磨《すり》ガラスの花瓶のなかに仕込んだスタンド付きの小さなマイクが、シルエットになってクッキリと浮きあがった。
「確度は十分さ。そうあったらという、仮定においてね……ところでウラニウムというやつは……」
 そこまで言いかけたとき、坂田は花瓶のマイクのシルエットに気がついて、口をつぐんだ。
 卓上灯のそれと見せかけてあるコードのゆくえを、目でたどっていたが、椅子から立つと、坂田は容赦のない顔になって、脇卓のテーブル・クロースをひきめくった。
「テープ・レコーダーか……」
 皮肉な微笑をうかべながら、レコーダーと二人の顔を見くらべてから、ツイと手をのばして、スイッチをあけた。
 由良と芳夫の会話のつづきが、ショパンの『雨だれ』のメロディに乗って、無類のあざやかさで流れだしてきた。
(おやじは、何十回となく、くりかえして聞く……
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