ら」
サト子は疑問をおこして、たずねてみた。
「すると、空巣にまちがえられたのは、なぜなの?」
「暁子のほうは、じぶんに会いにきてくれると思いこんでいるので、愛一郎がいるあいだじゅう、そばを離れないから、家捜しをすることができない。それで、あの日、暁子の留守にはいりこんだのだが、女中が代ったばかりで、愛一郎の顔を知らない。空巣だと思って、材木座の派出所へ電話をかけたので、ああいう結末になった」
三原橋の近くまで来ると、エンジンをかけたまま十字路の角でパークし、運転手が、都電の線路ごしに、築地のほうから木挽町《こびきちょう》の通りへはいってくる車を、熱心にながめだした。
中村は、横目でサト子の顔色をうかがいながら、
「ウラニウムの話はべつにして、最近、思いがけないことがあったでしょう?……たとえば、たれかが、訳も云わずに、何万ドルという金を持ちこんできた、なんてことが……」
「そんなこと、なかったわ」
サト子は、急に不安になって、
「含んだようなことばかりいわれると、こわくなっちまう……それは、あたしに関係のあることなんですか」
中村は脇窓のほうを見ながら、
「将来、そんな意外なことも、起りうるだろうということですよ。あなたはこれから、独力で、えらいやつに立ち向かうことになるんだが、見かけよりは、しっかりしているようだから、たぶん……うまく、やるでしょう」
「そんな謎みたいなことばかり言っていないで、わかるように話してください……愛一郎や秋川氏の話がでたけど、あのひとたちにも、関係のあることなんですか」
「もちろん」
「秋川夫人の古い恋文にも?」
中村は、キラリと目を光らせた。
「間接にはね……だが、そんな皮肉は言わないでおきなさい」
「ごめんなさい……すると、神月なんかにも?」
「ほかに、山岸弁護士の親子や、あなたのおばさんや……」
いきなりスターターがはいり、車が飛びあがるような勢いで走りだした。
「来たらしい」
木挽町の町幅いっぱいになっている車の流れから、エメラルド色のセダンが一台ぬけだし、十字路を左に折れて、新橋のほうへ走って行く。中村の車は、都電の線路を横切って後を追っていたが、汐留の長いコンクリートの塀のあたりで、並行して走りだした。むこうの運転席の脇窓と、こちらの車房の脇窓が並ぶ位置になると、中村は、いきなり座席に身を伏せた。
「むこうの車の男の顔を、見ておきなさい」
四十五六のバイヤーらしい男が、脇窓に肱をかけた無造作なかっこうで、ハンドルを握っている。額が禿《は》げあがって、首のあたりが紅を塗ったように赤い。典型的なワシ鼻で、マックァーサーの顔に、どこか似ていた。
「見たら、そこの仕切りを叩いてください」
言われたようにガラスの中仕切りを叩くと、それでスピードが落ちた。むこうの車は辷るように新橋のほうへ遠ざかって行った。
「あのひとは、なんなの?」
「あれは、ウィルソンという男です。横須賀の女たちは、ジャッキーといっているが、あの男が、あなたの身辺に立ちまわるようになったら、用心なさい」
「用心って、どうすることなの?」
「それは、あなたの判断で……私には職務の限界があって、これ以上の助力はできない。ウィルソンという男の顔を見せて、あいつは、あぶないと、注意してあげるくらいが、せいぜいのところだと思ってください」
あとは、なにを聞いても返事をしないぞ、というような冷淡な顔で、ゆっくりと煙草に火をつけた。
ウラニウム
田村町の裏通りにある、『ジョン』というレストランの二階へ、サト子の叔母の由良ふみ子が重々しいようすであがってきた。無意味な失費を厭《いと》うので、新橋から氷雨《ひさめ》に降られながら歩いてきたのらしい。茶のオーヴァ・コートが濡れしおれている。
時はずれで、客のいない食堂のなかを見まわしていたが、通りにむいた窓ぎわのテーブルで、カオルの弟の山岸芳夫が煙草を吸っているのを見つけると、
「おや、あなただったの?」
といいながら、ボーイにコートをわたし、のたのたと芳夫のそばへ行った。
年にしては派手すぎるマチス模様のクレープのアフタヌンを着ている。歩くたびに、いっせいに贅肉《ぜいにく》が揺れるので、マチスの魚や海草が、みな生きて動く。
「山岸さんだとばかり思っていた。電話の口上は、そんなふうだったから」
芳夫は、見たらわかるだろうといったふうに、細く剃りこんだ口髭を撫でながら笑っている。由良は、嫌気な表情を露骨に見せながら、小さな椅子に大きくおさまると、うさん臭そうにジロジロと食堂のなかを見まわした。
「しゃれたみたいな、なまめかしいみたいな、へんな感じだ……どういう家なの、ここは」
芳夫は、渋いチョーク縞《じま》のスーツの膝に散った煙草の灰を、指の先で器用にはじきながら、
「この家は、アメリカ人のやっているバア・レストランで、スウェーデン式の前菜を、アメリカ風にあちこちした、しゃれたオードォヴルを食わせるので有名なんです……アメちゃんのバイヤーたちの、たまりみたいになっているんでね」
階下のサロン・バアで、楽士がピアノでドビュッシイの『金魚』を奏《ひ》いている。
「オードォヴルはいいけど、こんなところへ呼びだして、どうしようというわけ? いくら、あなたがオマセさんでも……」
芳夫は、笑いもせずに、はじきかえした。
「そんなご心配はなさらないで……きょうは、まじめな商談がございますんです」
「あなたは、抜け目のないひとだから、むだに、ひとを呼びだすなんてことは、ないのでしょうけど……それで?」
「ここで坂田省吾と、掛けあいをやろうというのです。おばさまには、立会いくらいのところで、おさまっていただいて……」
サロン・バアのピアノは、ショパンの『雨だれ』になった。氷雨の雨足にテンポをあわせるように、だるい調子で奏いている。由良は眉の間に嫌皺《いやじわ》をよせながら、
「サト子なんかもそうだけど、あなたがたの話って、いきなり、突っ拍子もなくはじまるので、あっけにとられてしまう」
と、投げだすように言った。
「話には、順序というものがあるでしょう。アプレ式の会話っていうのかもしれないけど、わかるように話してくれなくちゃ、わかりゃしない……ここで、坂田となにをするって?」
「掛け合いをすると申しましたが、お聞きとりになれませんでしたか」
「あなたが、あの坂田と?」
芳夫は顎《あご》をひいて、いんぎんにうなずいてみせた。由良は、相手になる気もなくなったふうで、
「聞きちがいでなけりゃ、結構だけど……掛け合いって、漫才のことですか」
芳夫は、咽喉仏《のどぼとけ》を見せながら、はっはっと笑った。
「さすがは賢夫人だけのことはある。ウガったことをおっしゃいますね……そうですよ、漫才をやろうというんです」
「心細い話だわね……この夏、熱海の会談で、腹を立てて帰ったひとでしょう……あなたなんかの誘いだしに乗って、こんなところへやってくるとは思えないね」
「かならず来ます。坂田としては、来ずにいられないわけがあるんだから」
「そんなら、なおさらのことよ。あなたみたいなひとを、むけてよこすなんて、山岸さんも、どうかしているわ……それにしても、うるさいピアノね。さっきから奏きづめだ。やめてもらうわけにはいかないの。話もなにもできやしない」
「そんなに、うるさいですか……二時間ほどの間、奏きづめに奏いてくれるように、たのんであるんですが……おばさま、お聞えにならない?……クルクル回る音が?」
由良は首をふった。
「聞えないわ。なんのことなの?」
芳夫は椅子から立ちあがると、脇卓のテーブル・クロースをまくって、棚板の上に置いたテープ・レコーダーを見せた。
「こんな仕掛けがしてあるんです……マイクは、この花瓶の中に入れてある。ピアノは、この場の雰囲気をつくるためなんで……」
レコーダーのテープの巻枠《リール》が、リズミカルにクルクル回っている。
「どこで音がする? でたらめをいうのも、いいかげんになさい」
からかわれたのだと思って、由良は、年がいもなく大きな声をだした。芳夫は、子供のままに発達をとめたような、年輪不明の顔に薄笑いをうかべながら、
「おばさまが、それほどオクレているとは、思っちゃいません。ちょっと、気をひいてみただけのことなんで……」
「オクレているっては、あなたのことでしょう。こんなオモチャ、大まじめな顔で担《かつ》ぎこんでくるなんて、頭の程度が知れるわね」
「それは、考えすぎです。この家は、バイヤーたちの商談の場なので、こんなキカイを用意しておいて、お求めに応じるようになっているんです……すこし、便利すぎるようだが」
「トロくさい……第三弁護士会の会長といえば、抜目のない代表みたいなもんだと、聞いていたけど、こんなタワケたものを……」
「これは、私の思いつきでも、おやじの発明でもありません。たとえば、チューインガムね……食べものにゴムを使うことを考えたように、タンゲイすべからざる契約前の商談に、テープ・レコーダーを利用することを思いついた。これは、アメリカ人の斬新性というやつです……ドタン場になると、とかく逃口上を言ったり、嘘をついたりする日本の商人を相手にするには、こういう方法で言質をとっておくにかぎると、アメ公のバイヤーたちが言っております」
由良は耳も藉《か》さずに、
「目ざわりだから、あっちへやってちょうだい。なにをするにしても、もうすこし、まじめにやっていただきたいわ」
「そうはおっしゃるが、これは、おやじの霊感の泉なんです……世間が寝しずまったころ、寝床へはいって、こいつを枕元へ置いて、霊感のひらめくまで、何十回となく、くりかえして聞く……坂田のものの言いかた、言葉の陰影と抑揚、言いちがい、言いなおし……微妙なもののなかから、坂田の弱点を発見する……そのあとで、弁護士会のクラブへ持って行って、弟子どもを集めて、それぞれのちがう耳で聞かせて、意見を述べさせる……あなたのおっしゃるような、たわいないことじゃないんです」
由良は、渋々うなずいてみせた。
「それは、わかるけど……私が言いたいのは、そんな大切な掛け合いなら、山岸さん自身がやってくだすったらよかろうということなの」
「おやじは、蜘蛛《くも》の巣の奥にいて、蝶《ちょう》々トンボがひっかかって、身動きできなくなったときに、はじめてうごきだすんです……この夏、熱海ホテルで坂田と顔をあわせたことだって、蜘蛛の常識からいえば、普通には、ないことなんですね。おばさまが、うるさくいうから、出て行きましたが、あれは失敗だったと、おやじも言っていました……サト子さんのお祖父さんの、十三億の遺産のことは……」
由良が、きびしい声で訂正した。
「あたしの父です」
「ご尊父さまの遺産のアレコレは、事件として、おやじに一任なすったのだから、行きつくアテがつくまで、だまって見ていてくださるほうがいいです」
階下のサロン・バアでは、調子を換えて、ドビュッシイの『沈める寺』を奏きだした。
由良は、窓ガラス越しに、目の下の通りを、だまってながめている。賢夫人の通性で、だまりこむと、腹のなかがわからなくなる。芳夫は煙草に火をつけると、そば目だてしながら、由良のようすをうかがっていたが、七五三の子供の兵隊によく似た、かぼそい口髭を撫でながら、そろそろと探りだしにかかった。
「なにを考えているんです? あなたが、そうしているときは、いちばん、こわいときなんだね?」
由良は、通りから目をはなさずに、つぶやいた。
「あなたのような、いい加減なひとのところへお嫁にいくサト子も、かわいそうなものだと、思っているとこなの……ほら、あそこを歩いている……いやだ、どうしたんだというんだろう。あんな、しょったれたコートを着て……」
芳夫が窓のそばへ立って行った。
葉を落しつくした街路樹の裸の枝々が、氷雨に濡れて、寒そうに光っている。着古した、玉ラシャのオーヴァ・コートに貧苦のやつれを見せたサト子が、豪勢なラクダ色
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