サト子は中村のとなりに掛けた。座席にヒーターが通っていて、ほんのりとあたたかい。
「雨が降りそうだから、日比谷公園はダメでしょう。泰西画廊へでも、行きますか」
 このひとはあとを尾《つ》けまわして、一日の行動を見ていた。それを隠そうともしないのだ。サト子は、つんとして、切口上でこたえた。
「ブラブラするのは、もう、やめましたの」
「どこへ、お送りしましょう」
「郵船ビルのレーバー・セクション(労務課)へ行って、メイドでもなんでも、やってみるつもりなの」
「へえ、メイドにね……それもいいが、川崎の鉱山調査研究所に、雇員の口があるよ……鉱山保安局にいる由良ってのは、あなたの叔父さんだろう。相談してみたらどうです」
「叔父や叔母の世話には、なりたくないの」
「そういうことなら、話はべつだが」
 中村は、車房のガラスの中仕切りをあけて、運転手になにかささやいた。三丁目のほうへ行くのだろうと思っていたら、反対に水上警察のほうへ走りだした。嫌な予感がして、サト子は、われともなく筒ぬけた声をだした。
「道がちがいはしないかしら?」
 中村は、笑って、
「大川端でもドライヴしましょう。たいして時間はとらないから」
 むずかしい話になりそうだ。思いきって、サト子は、こちらから切りだしてみた。
「あたし、あなたに文句があるのよ」
「文句が? 伺いましょう」
「秋川の家の庭で約束したわね。愛一郎を連れて、鎌倉署へ出かけて行くって」
「あのことですか……それで?」
「こちらから行くという約束を無視して、愛一郎を警察へひっぱって行ったのね?」
 中村は前窓《フロント》を見ながら、冷静な顔でこたえた。
「あいつ、秋川の家の下の道で、車をつっかけて、私を轢き殺そうとした」
「あなたに会って、のぼせあがって、ハンドルを切り損《そこな》った……なんてことも、考えられるわね」
「そのときの情況は、逆上したというようなものではなかったね……月夜で、視界のきく直線道路の上だったから、私が歩いていることは、たしかに見えていたはずなのだが、いきなり後から追っかぶさってきて、並木の幹で、おしつぶそうとした。私が道端の溝川《どぶかわ》へ飛びこまなかったら、とても助からなかったろう……悪意がないものなら、そのとき車をとめるべきだが、私が溝川へ落ちこんだのを見ながら、車を返して、谷戸《やと》の奥へ逃げて行った……ゆるしておけないから、谷《やつ》のふところで、山岸カオルと話しているところへ行って、しょっぴいてやった」
 両国橋を渡りかけるころ、前窓《フロント》のガラスに、雨のしずくが、白い筋をひきはじめた。脇窓から、寒むいろの大川の水が見える。けさの霧で、上り下りの小蒸気や発動機船がどこかへ片付いてしまったので、川のおもてが、ひどく広々して見える。
 急に話がとぎれたので、目の隅からうかがうと、中村は目尻のあたりを青ずませ、いまにもドナリだしそうな物騒なようすをしていた。
「すごい顔をしてるわ。あたしの言ったこと、気にさわった」
 中村は顔をあげると、深い物思いから呼びさまされたひとのような、おぼろな声でこたえた。
「……むかしのことを思いだしていたもんだから……白状しますが、じつは、私にも、よく似た経験があるんだ」
 ギョロリとサト子のほうへ振り返って、
「当時、私は大尉で、『足柄《あしがら》』の副長付をしていた」
 といきまくような調子で言った。
「新婚早々で、鎌倉の材木座に住んでいたが、この前の戴冠式《たいかんしき》に、足柄で英国へ行って帰ってきたあと、どうしても、ある男に懲罰を加えてやらなければ、おさまらないことになった……撃っても、斬っても、恥の上塗りになるという、やる瀬ない事情なもんだから、その男を、あるところへひっぱりだして、車でつっかけて、始末してしまおうと思った……あなたも知っている人物だから、名を言ってもかまわない……その男というのは、神月伊佐吉です」
 新婚早々の細君を鎌倉に残し、英国の戴冠式に行っている間に、刃傷沙汰《にんじょうざた》に及ばなくてはならないような事件が起き、そしてその相手が神月伊佐吉ということになれば、聞かなくともおおよそのところは察しられそうだったが、中村が、なぜこんなうちあけ話をする気になったのか納得がいかず、サト子は、浮かない顔で聞いていた。
 そのうちに、大川に沿った、隅田公園のそばの広い道路に出た。
 中村は、側窓のなかで移りかわる川岸の道を、目を細めてながめていたが、うってかわった、おだやかな口調で、
「いまの話のつづきですが、私が神月をやろうと思ったのは、ここだった……月夜でしたが、ちょうど、このあたりを私の車が走っていて、五十メートルほど前方を、神月が歩いていた……」
「おどかそうたって、だめ……」
 サト子は、おしかえすようにして、笑った。
「けっきょくのところ、なにもしなかったんでしょ? 神月は、まだ生きているんだから」
 中村は、もの憂そうに、うなずいてみせた。
「なぜ、やれなかったというと、神月は、こうなることと覚悟して、私の車がうしろから突っ掛けて行くのを知りながら、逃げも、走りもしないのだ……女蕩《おんなたら》しも、女狩りも、いずれ報いがあるものと、悟ってのうえのことだと思ったら、それで、殺す気はなくなった」
 中村は、座席から腰をうかして、ガラスの仕切りを指で叩いた。運転手は、うなずくと、白鬚橋《しらひげばし》から浅草のほうへ戻りはじめた。
「神月は、相変らず、くだらない生活をしているらしいが、神月にたいするうらみは、その夜かぎり、私も忘れたし、家内も忘れた……家内は、銀座あたりで、ときどき神月を見かけるそうだが、いつ見ても、あのひとは美しい、こっちは、おばあさんになって、もう相手にもされないけど……などと、笑いながら話すようになりました」
 余談のようなことをいっておいて、だしぬけに話題を変えた。
「愛一郎ってのは、いい青年だね……あれがやっているのは、母親の生前の秘密を、他人《ひと》に知られたくないという、おとぎばなしのようなことなんだが、やろうと思ったら、どこまでもやりぬこうとする、気概のあるところが気に入った」
 愛一郎の母は、秋山と結婚するいぜんに、夏の鎌倉で神月のまどわしにかかって身を誤った。
 そのころ、神月に送った手紙の束が、別荘の大谷石の壁暖炉の、嵌《はめ》こみになったところに放りこんであることを知っていたが、どんなに頼んでも、返してくれなかった。夫人は、秋川からも、愛一郎からも、貞潔なひとだと思われていたので、手紙の所在を苦にして、二十年も悩んだすえ、最後の日に、告解の意もあって、その事実を日記に書きつけて死んだ。愛一郎は、最近、母の日記を読み、死んだ妻にたいする父の美しい追憶を守るために、母が思いを残した手紙の束を、とりかえそうと決心したものらしい。あの夜、サト子が聞いたのは、だいたい、そんなふうな話だった。
「そうなのよ。変っているけど、いい青年だと思うわ」
「アヤマチといっても、秋川と結婚する以前の出来事で、愛一郎には関係のないことなんだから、たしかに、変ってるね……あんないい息子を持っている秋川というひとが、うらやましくなったよ」
「すると、愛一郎は、なにもかも、あなたにうちあけたわけなのね?」
 中村は、うなずいた。
「もっとも、言わせるように術を施したからなんで、そうでもしなければ、なかなか口を割らなかったろう……だが、あれは、釣りだされたとは考えていないようだ」
 無慈悲な中村の横顔を見ているうちに、サト子は、手がふるえるほど、昂奮してきた。
「愛一郎が恐れているのは、美しいイメージをもっている父親に、幻滅の悲哀を味わわせたくないということなんでしょう……そんなにまでして隠そうとしている尊属の秘密を、みなのまえでさらけだしたんですか」
 中村は、苦味のある微笑をうかべながら、
「そうまでのことは、しなかった……署長と捜査主任に退ってもらって、ふたりだけの対坐でやった……山岸カオルの話で、むかし神月の巣だった久慈の屋敷へ、愛一郎がどんな目的ではいりこんだか、だいたい、わかっているんだが、久慈の顔が見たくなって、フラフラとはいりこんだなどと突っ張るのには、弱った……久慈の娘の、暁子《あきこ》ってのを呼びだして話をさせると、久慈の娘は愛一郎に惚《ほ》れているもんだから、私に会いに来てくれたんだなどと、平気な顔で偽証して、愛一郎を庇おうとするんだ」
 久慈の娘に会ったことはないが、あどけない情景が見えるようで、サト子はホロリとした。
「つらい話だわね」
「あまりかわいらしいので、扱いかねましたな……」
 浜町公園の近くまでくると、中村は腕時計を見ながら、なにか考えていたが、座席から立ってガラスの中仕切りをあけ、
「遅れたようだ、急いでくれ」
 と、運転手に命令した。
「十三時ジャストまでに、三原橋の十字路へ……ウィルソンの車を知っているな」
「知っております」
「十字路の角でパークしていて、築地から来る、あいつの車を見張るんだ。新橋のほうへ行くはずだから、キャッチしたら追尾して、汐留《しおどめ》のあたりで、左側について一分ほど並行して走ってくれ」
 車はスピードをあげると、横降りの雨のなかを、人形町のほうへ走らせた。座席へもどると、中村はサト子にたずねた。
「どこまで話したっけね?」
「あまり、かわいらしくて、扱いかねたって」
「……だが、そんなことではすましてはおけないから、私も神月の被害者だという話をした……むかし、家内がタブラカされたことがあるという話をね」
 サト子は、あきれて中村の顔を見た。
「警察というところは、必要があれば、そんなことまで道具に使うものなの?」
「どんなことだって……そうすると、愛一郎は、コロリと落ちた。なにもかも、みなうちあけたよ」
「ひどいことをするのね」
 中村は、額を撫でながら、
「そういったものでもない……神月は、追放解除になってから、秋川の仕送りでカツカツにやっているが、むかしの夢を忘れきれない。もういちど大きく乗りだしたいと焦《あせ》っている……恵那《えな》のウラニウムの試掘の件で、秋川にまとまった金をだしてもらいたいのだが、神月は、秋川を恐れているので、じぶんでは、言いだせない」
 そう言うと、サト子に、
「あなたは、苗木のウラニウムのことは、聞いたでしょう?」
 と、だしぬけに、たずねかけた
「ウラニウムって、原子爆弾のウラニウムのこと?」
「まあ、そうです」
「いいえ、なにも」
 中村はうなずいて、
「知らなければ、知らないでもいい……それで、父親に絶対なる説得力をもっている愛一郎を、おどかした……」
 愛一郎が、神月から母の古い恋文をとりかえそうというのは、母の追福のためだと想像していたが、そんなロマンチックなことでもなかったらしい。
「へえ、そんなことがあったんですか……愛一郎、どうだったの? 相手が神月じゃ、勝目はなかったでしょう」
 車は、特徴のある、鼻声のような、警笛を鳴らし、前の車を追い越しながら、猛烈なスピードで三原橋のほうへ飛ばしている。
「いや、負けちゃいなかった。神月の申し出を断わって、少年探偵モドキに、神月の屋敷を捜しまわったようなことも、あったらしい」
「あのひとなら、それくらいなことは、するでしょう」
「……捜すものは見つからなかった。愛一郎は、古い恋文を送りつけられるのを恐れて、門の郵便受の前で、張番をしていた長い時期がある」
 あの夜、扇ヶ谷の家で、秋川が、あれはあなたの手紙を待って、郵便受の前で張番をするようなことまでしていると言った。サト子を、愛一郎の愛人だと思いこんでいるようでは、それほどの息子の苦労を、秋川は知らずにいるのらしい。
「飯島の久慈の家へはいりこんだのは、あの日だけでなくて、三月ほどの間に、五回以上も行っている……久慈の娘には、あなたに会いたくて、なんて、うまいことを言っていた事実もある。もっとも、そうでもしなければ、他人の家へ、そう、しげしげと入りこめるものではないか
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