とになったら、ぼくは君の義理の子供になるわけだからね。機嫌《きげん》をとっておくほうが、よくはないのか」
「万一、そうなっても、あなたのようなひと、子供だなんて思わないわ」
「失礼だけど、ぼくのほうも、そうだ」
「あなた、ひどくイライラしているようだけど、どうしたというの?」
「うるさい」
 愛一郎は、露骨に軽蔑の意をみせながら、車のほうへ立って行き、崖端に衝突して傷《いた》んだところを、熱心にしらべはじめた。
 それが癇にさわったらしく、カオルは、はじかれたように立ちあがると、下草のなかを走って行って、バンパー(緩衝器)のねじまがったところをのぞきこんでいる愛一郎の背中を、力まかせにこづいた。はずみで、愛一郎は頭を泥よけの端にぶつけ、両手で頭をかかえて、そこへしゃがみこんでしまった。
 愛一郎は、依怙地なかっこうで、石のように凝り固まっていたが、だしぬけに振り返ると、思いきり、カオルの頬をひっぱたいた。うまいところへ、あたったのだとみえて、ピシャリと景気のいい音がした。カオルは、ものもいわずに、猛然と愛一郎に組みついて行った。
 見事な体当り。愛一郎は、あっさり寄り切られて、草むらにしりもちをつき、ついでに、あおのけに、ひっくりかえった。カオルのほうは、力があまって、萱《かや》のしげみのなかへ、のめりこんだが、愛一郎に手をつかまれているので、起きあがることができない。裸の足で萱原を蹴ちらしながら、あいたほうの手で、愛一郎の頭をピシャピシャ叩いた。愛一郎は、カオルの手首を、腕のなかへ巻きこんで、押えこみの型でいこうとした。カオルは怒って、愛一郎の二の腕に噛みついた。
 崖端に乗りあげて、かしいでいる車のルーム・ランプの光が、まわりの荒々しい風景を、あざやかに照しだしている。つきとばしたり、ひっぱったり、間のぬけた、そのくせ、どこか残忍なおもむきのある無言の格闘は、それから、しばらくつづいたが、結局は、愛一郎がカオルに押えこまれたところで、幕になった。
 カオルは、愛一郎の胸のうえに馬乗りになると、おどかすような声で、言った。
「もっとやる? いくらでも、お相手してよ」
 どうしたのか、応答がなかった。
「ナイフをだしたときの元気、どこへ行ったの? あなた、あたしをやっつけたいんでしょう? だったら、もっとやってみたら、どう?」
 愛一郎の服の襟をつかんで揺すりながら、グダグダ言っていたが、愛一郎は、はねかえそうともしないので、張合いがぬけたのか、カオルは草むらに足を投げだして、煙草をすいだした。
 西のほうの雲が切れ、海のあるあたりが、白い虹が立つように海光りしている。ルビー色の航空灯が明滅している江ノ島のうえの空を、定時のPAAが鼻唄のような爆音をひびかせながら、低く飛んでいる。谷間から吹きあげる湿った夜風が、いいほどに皮膚をひきしめ、霞《かすみ》がかかったようになっていた頭のなかが、はっきりしてきた。
 秋川は客間でしょんぼりしているのだろう。遊びのような愛一郎とカオルの喧嘩を見ていたってしようがない。しゃがんでいたところから立ちあがろうとしたとき、サト子は、聞き捨てにならないひと言を聞いた。
「愛一郎さん、あなた、どこかへ逃げるつもりなのね」
 愛一郎は、ギックリしたように、はね起きた。
「ぼくが、逃げるんだって?」
「あなたの部屋へはいって、スーツケース、見たわ……どこか、遠いところへ出かけるみたいね」
 事情さえわかれば、署長の裁量で軽くすませると、警察では言っている。いま逃げだしたりしたら、むずかしいことになるのだ。サト子は、どういうことになるのだろうと思って、いまのところへ、またしゃがみこんだ。
 愛一郎は、激したような声で言った。
「ぼくにだって、旅行する権利くらいは、あるだろうさ……行きたけりゃ、どこへだって行くよ」
 カオルは、愛一郎の顔を見ながら、勝ちほこったような声をだした。
「とうとう白状した……あなた、警察がこわいのね?」
「警察が、どうしたって?」
「さっき来たのは、中村という鎌倉署の捜査課のひとよ……神奈川の警察部の渉外部にいるとき、第八軍の憲兵と喧嘩をしたせいで、鎌倉で、捜査課の外勤なんかやらされているけど、あれで、もとは海軍少佐なの」
「どうして、そんなこと知っている?」
「横須賀の保健所で、いっしょに通訳をしていたことがあるからよ……パンスケがむやみに殖えて始末がつかなくなったので、保健福祉局のウィルソンというのと三人で、『白百合』という、共済組合のようなものをつくってやったことがあるの」
「それが、ぼくになんの関係がある?」
「あのひとが玄関へ来たときのあわてかたったら、なかったわ。ソワソワして、ドライヴしましょう、なんて言ったわね。サト子さんと話しているそばを、逃げるように駆けぬけたじゃないの」
「なんのことだか、ぼくには、わからない」
「ドライヴなんかやめて、家へ帰ろうと言ったら、それでも、渋々、車をかえしたけど、国道の分れ道で中村に会ったら、ハンドルを切って、こんなところへ逃げこんで」
「君が、ハンドルに手をかけて、無理にひんまげたからだ……おかげさまで、車のあたまがめちゃめちゃになってしまった」
「臆病なひとって、切羽詰ると思いきったことをするもんだわね……あたしがハンドルを切ったのは、あなたが中村に突っかけて、轢《ひ》き殺そうとしたからよ」
 愛一郎は、顔をあげてなにか言いかけたが、ものを言うのはムダだというように、がっくりと首をたれた。カオルは腕をまわして、愛一郎の肩を抱くようにしながら、
「あなた、なにか苦しんでいるのね。あたしにうちあけてくれる気はないの? あたしを、敵だなんて思わないで……あたしにできることだったら、どんなにでも、力になってあげますって……愛一郎さん、おこらないでね……あなたのママの古い日記、あたし、読んだわ」
「ちくしょう、ママの部屋へはいりたがるのは、そんなことじゃないかと思っていたんだ」
 愛一郎は、血相をかえてカオルにつかみかかった。カオルは、手ぎわよく愛一郎をおさえつけながら、
「この間、神月の家へ行って、取っ組みあいみたいなことを、したんですって?」
「あっ、神月が言ったんだな」
「あなたが夢中になるのは、死んだママのことしかないんだから、なにがあったんだろうと思って、はいって調べてみたの……なぜ、あたしをママの部屋へ入れたがらないのか、その訳がわかったわ……あんなところに、ママの古い日記を隠してあるなんて、秋川氏も知らないことなのね?」
 愛一郎は、手をふり放して立ちあがると、カオルの肩のあたりを蹴りつけた。
「なんの権利があって、ひとが隠していることを、あばきだそうとするんだ?……おせっかいの、パンスケ」
 カオルは、愛一郎の手をとって、
「まあ、おすわんなさいよ。お話ししましょう」
「パンスケなんていわれて、腹をたてないのか」
「あたし、パンスケよ。あなたたちの聖家族のなかへは、はいれない女なの……ドイツへヴァイオリンの勉強に行っていたとき、戦争で日本から金が来なくなったので、生活費と月謝をかせぎだすために、手っとりばやいバイトをしていた時期があるのよ。あのころ、ベルリンにいた日本人は、みな知ってることなんだから、いまさら、隠しもできないわ」
 愛一郎は、草のなかに坐りこむと、膝に手において、がっくりと首をたれた。
「悪いことを言った。ゆるしてくれるね? カオルさん」
「だから、なんでもないって、言ってるでしょう」
「読んだのは、どういうところだったのかしら?」
「なにもかもよ……あなたのママの過失のことも、あたしのママの過失のことも……あたしにとっても、たいへんな発見だったわ。あたし、山岸の子供でなくて、ほんとうは、神月の子供だったのね」
「あれは、ママの想像でしょう。そんな深いことを、ママが知っているはずは、ないんだから」
「そのことなら、あたしが神月に会って、はっきりさせるわ。あなたが、とやかく言うことはないのよ。それより、ママの古い恋文、飯島の神月の別荘の、暖炉棚の虚《うろ》に放りこんであるって、書いてあったわね。あなたが心配しているのは、そのことなんでしょう。他人のこと気に病《や》むより、そのほうの始末をするほうがいいわ。なんだったら、いっしょに行って捜してあげましょうか。久慈なら、いくらか知ってるから」
 愛一郎が首を振った。
「捜してみたけど、そこには、なかった……ママの手紙は、神月が手もとにおいてあるらしい。ウラニウムの鉱山とかを買うので、その金を、パパに出してもらえるように、ぼくに骨を折ってくれって……」
「そう言って、脅かしているわけなのね。それは、いつごろの話なの?」
「夏のはじめごろの話……ぼくが、うんと言わないと、ママの手紙を、郵便でパパのところへ送りつけるというんだ」
 小道をとざす萱をおし分けながら、中村が谷戸へはいってきた。水を浴びたように、服も靴も、ぐっしょりと濡れていた。ツカツカと愛一郎のそばへ行くと、ドスのきいた声で、中村が叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しった》した。
「おい、立て……立って、おれについて来い」

  脇窓

 霧が流れるたびに、勝鬨《かちどき》の可動橋の巨大な鉄骨の側面が、水に洗われるように見えたり隠れたりしている。霧が深いので、毎朝、アパートの窓下の掘割へあがってくるポンポン蒸汽は、きょうはお休みらしい。聖路加病院の鐘が鳴るたびに、運河からカモメが舞いたつ。
 サト子は、窓ぎわの椅子に掛け、灰色の霧に白い筋をひきながら、舞いたち舞いおりるカモメの遊戯を、所在なくながめていたが、そのうちに、そうしていることにも耐えられなくなり、椅子から立って、広くもないアパートの部屋のなかをウロウロと歩きまわった。
 つわものどもの夢のあと……もとは、連れこみ専門のホテルだったが、いまは「ヴェニス荘」という、女たちだけのアパートになっている。
 ベッド・カヴァーの色も、スタンドの笠の色も、なまぐさいほど、なまめかしい。いぜんは、花々しい朱だったのだろう。それが日にやけて、灰色になったベッドのそばの壁紙に、女の手蹟《て》でいろいろな落書がしてある。いまの代の主人が消そうとしたらしいが、彫るように鉛筆でニジリつけてあるので、文字のかたちが、はっきりと残っている。
(石のベンチは冷たい……木のベンチは湿っぽい……秋の逢引《あいび》き)
 詩のようなものを、三行にわけて書いている……こんなのもある。
(神さま、売れば売れるものを、ひとつ、カラダのなかに持っているというのは、なんという不幸なことでしょう)
 ここがまだホテルだったころ、そういう女のひとたちが、どんな思いでこれを書いたのだろう。落書の文字と文字のあいだから、やるせないためいきが漏れてくるような気がする。
「売れば、売れるものを……」
 読んでいるうちに、笑いだしてしまうこともあるし、キザだと思って、顔をしかめることもある。そのときどきの気分で、感銘もさまざまだが、この二三日、意味もない壁の落書の文句が、身を切るような実感で心に迫ってくる。
 西荻窪の植木屋の離屋は、間代をためて追いだされ、行きどころがなくて困っていたとき、大矢シヅにこのアパートに連れこまれ、底抜けにひとのいいシヅに養われるようになってから、もう二ヵ月になる。
「他人に甘えるのは、いい加減にしておけ」
 ベッドの裾に腰をおろしながら、心をはげますように、サト子は、大きな声でつぶやいた。
 このアパートに連れてこられた日、大矢シヅが言った。
「おなじ部屋じゃ、いやでしょ。あいた部屋があるから、部屋はべつにするわね」
 シヅは、ウィルソンというビニロン会社の東京代理店のアメリカ人にかわいがられ、そのヒキで、会社の専属のファッション・モデルになった。横須賀でやっていたようなショウバイは、キッパリとやめたと言っているが、モデルの仕事だけでは、友だちを養っていけるほどの収入のないことは、サト子がよく知っている。ウィルソンというアメリカ人と顔をあわせたこと
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