拵えております。一巻は既に出来上りましたし、二巻を印刷して殆ど出来上っております。私とレビー氏との出版主任でやっております。これは震災後私が西洋に行きました時に、大正九年にフランスで私も加わって決議したのであります。仏教辞書を拵えるということについては日本学者の協力は必要であるから、日本で拵えて送ってくれというふうの話でありますから、こっちでも金がなくては指を染めることも出来ない。そのうちに向うがたまらなくなってレビー博士が日本に出て来た。二、三人連れて來て日仏会館で編纂している。こっちも加勢して進行している。幸いに大阪の和田氏が編纂費を出してくれるので一巻はすでに出版した。評判も相当に宜しいので一同喜んでいるのであります。
九
とにかく一切経を向うの人が平気で読めるようにしたいという希望であります。日本にこれだけの偉大なる文字があるが、それを辞書もなく、索引もなく、註釈もなくて、自由自在に読むものは西洋人にはない。日本人の力を借りなければいけないのは当然である。こういうことがはっきり西洋の人の頭に今では分ってきたのであるからかかる順序に進んだのであります。とにかくわれわれはインドに出てインドに亡びてしまい、シナに出てシナで亡びてしまったものを保存している。しかもインドにもなく、シナにもなく、朝鮮にもセイロンにも安南にもないという組織でこれを研究して持ち続けている。それはどういう組織かというと、まず教学の組織としては、一切経を研究するのにはそれぞれの順序がある。倶舎、唯識、三論というように順序がある。「唯識三年倶舎八年」というように今まで伝えられた。推古帝の時に法隆学問寺が出来まして、それが聖徳太子の時の大学であった。それから東大寺が仏教大学の組織を有するに至った時には、普通の大学と分れて、普通の大学は大学頭を戴いて法政、暦数、史書などの研究をする。仏教の方にも法相衆、三論衆、華厳衆など部門を分っていた。
足利時代、聖フランシスコ・ザビエルが日本に初めて耶蘇教を弘めたのでありますが、その時に日本に七つの大学があるといって仏教大学のことを報告している。当時大学と見てよいものが多くあった。高野山学林、三井寺学林、比叡山学林などに明了に分っている。京都に南禅寺学林、妙心寺学林かと思われるものがある。外に足利学林がある。大宮学林(熱田)がある。とにかく学問としての仏教を各宗共に大学校をおいて研究している。日本で一宗派を開くに一切経を読みこなして、仏一代の教えを判別して分類し、自分は何れの部分に依って宗派を立つるということを宣明する。これが宗旨を立つる上に最も必要な仕事である。これを「判教」と名付ける。それでありますから一宗を建立するということはよほどむずかしい。後のものは宗祖の判教に依って自派の学的系統を相承せねば信仰の目標も成り立たない。この判教ということが学問組織を完成せしめた所以である。したがって学林祖織というものが出来、各宗派でも一つの大学を持っているようになった。西洋のどんな宗旨だってこんなに各宗派にみな大学を持っているようなことはありませぬ。これを文部大臣が普通の大学と同じように見て、仏教大学じゃいかぬ、竜谷大学にしろ、曹洞宗大学ではいかぬから駒沢大学にしろというように、俗名を付けさして普通の法律大学と一緒に扱う方法を設けたのはこの美しい組織を破壊したわけであります。これは岡田文部大臣だけは分っていた。かくの如く学林というような特別な組織があって、学林組織が今日まで続いている。次には寺院組織である。これは信仰としての組織である。各宗派とも別に門戸を張っている。学問の方は宗旨にのみ依らないで、倶舎の実在教も、唯識の理想教も、華厳の汎神教も、法華の実相教も研究していくのであるが、これは学問じゃない、信仰としての方面だけが寺院組織となったのであります。
それは寺院の門末関係である。各宗派とも門末関係が出来て、それが秩序整然たる特殊の組織として残っている。これは朝鮮に行ってもないし、シナに行ってもないし、インドに行っても尚更ない。どの国に行っても日本のように徹底的な組織はない。これは日本の家族制度の組織がかくはっきりならしめた所以であります。その中で一層堅固に世襲で行くというような宗派もある。寺院組織を潰さないようにするのはわれわれの目前の要件であると思う。寺院仏教とか伝統宗教とかいって悪口はするものの、如何にしてもこれに似るべき組織は出来得ないのである。これは朝鮮にもないものでありますから、総督府は遽かに三十本山を認めたが、選び方がいけなかったので、その下に本山よりも偉い寺があるというようになって、多少困難に陥っている。とにかく一旦認めたのだからやめてはいかぬというので三十の本山を今も認めておりますが、かかる寺院組織の完備は自然の発達に待つとすると従来の寺院組織は日本として誇るに足るものであります。
学林としても残っているし、寺院としても残っている。すなわち学問としても残っており、信仰としても残っている。こういうぐあいに一寸刻みにやって残しているのは、これは日本人がやったので日本人が偉いのだと思います。儒教でもそうであります。儒教はシナで出来たものでありますが、シナは儒教の国ではない。シナ人自身が儒教を棄ててしまった。棄てるばかりではない、全体儒教が分っていない。忠と説いても忠を徹底的に教えたのは日本人のみで、シナでは分っていない。儒教の精神を本当に理解しているのは日本人である。しかし震災の当時に日本唯一の孔子の像を焼いてしまった。誰一人これを助けにいかなかったのは遺憾でありますが、これは儒教は信仰として残ったものでないから、そうだったのかも知れませぬ。
そういう訳でシナは儒教の国ではない。シナの土地が痩せている。インドは仏教の国ではない。当時哲学的にはインドが一番進んでおった、けれどもインドは本当に仏教を理解していない。今頃になって気付いて、十年前の統計では三千人しか仏教徒と書いて出す者がなかったが、十年後の統計で見ると三十二万八千五百人の人が仏教徒と書き出した。これはインド人が自覚してきたからでありますが、結局自分の国で棄てたことを後悔している。聖徳太子が言われたように日本は大乗相応の地である、大乗に適応した国は日本であるというのであるが、聖徳太子が適応するように、率土の浜王土に非ざるなしという憲法を書き出されて、日本の組織と仏教の組織とを合一せしめられた方針が重きを為しているのだと思います。日本の文明は仏教によって完成したといって差支えないと思います。而して仏教というものを今日のように研究の上でも、信仰の上でも、組織の上でも十分に完全にしたというのは日本人だから出来たので、日本人はこの点にはよほど偉いところがある。何でも来る物はみな受けるというのなら道教などでもきていそうなものである。聖武天皇に向って唐の玄宗皇帝は道教の道士を送ってやろうということを何遍も言われたが、聖武天皇は道教は日本には要らないと仰せられた。また耶蘇教でももう少し日本の耶蘇教者が研究を重ねて、あんなふうな西洋式でなくやったら日本的耶蘇教が日本で出来たでしょうが、いつも西洋の耶蘇教のように考えておったから日本の宗教にはならなかったのであります。
十
こういうぐあいに考えますと、日本人のやったもので、西洋の文明市場に持ち出して相当の値段で買ってくれるものは何かというと、これは大乗仏教より他にはない。今まで西洋人は小乗仏教に欺かれて、南方ビルマや、シャム、セイロンの仏教が純真の仏教であると思っていた。もちろん形式の仏教としてはセイロンの方がよいかも知れないが、しかし仏教の貴ぶべき所は仏の理想だということが分ってみると、やはり日本の仏教が一番徹底的である。哲学的にいっても、宗教的にいっても、学問の上からいっても、信仰の上からいっても徹底的であるということが分ってきたのであります。外に西洋人が貴ぶものがあるとすれば仏教文明の副産物である、仏教美術である。西洋人はこれに対し非常に敬意を払っております。これは日本の文明に伴うて出来上った大切な記念でありますが、日本の教育では情けないことに小学校から中学校、中学校から高等学校という間にこの日本の文明に大なる関係のある仏教美術を一枚も見せて貰えない。そういう教育なのであります。これは日本人が自ら棄てている形であります。
それなら仏教の方は教えているかといえば教えていない。小学校の教科書にはたくさんの伝記はあります。武士とか文人とかの伝記はありますが、仏教者の伝記は弘法大師と伝教大師とあった、が数年前には弘法大師だけにして、伝教大師を除いたのです。私共はその時文部省にその理由を質した。なお多く入るべきであるのにどうしてこれを削ったかと尋ねると、理由はない、二人だからあまり多いとはいえない、で教案の方に残すから、今除けたばかりに責められて載せるとなると困るから、教師が教える時には教えるように教案の方には残すから勘弁せよということであった。
日本の教育ではかく殆ど無視している。西洋人は却って大乗仏教と仏教美術には相当に頭を下げるのでありますから、続々研究のために来るのであります。その研究も昔とは違ってきた、前は一応の説明を与えてやれば満足して帰って行く、そしてその十分の一くらい旅行記の端に書けば満足している。しかし今頃来る人は全く相違している。天台を研究する人は叡山に登らなければ承知しない。真言を研究する人は高野山に登り、灌頂を受けなければ承知しない。西洋にも何千人という会員を持った協会もある、会堂を持って時々講演を開いているのもある、或いは文芸的に或いは劇的に仏教を表現せんとするものもある、如何にもして大文学美術を研究しようとする努力が四方に現われております。老子の如きは戦後大変に研究されましたが、これは一時の流行で長続きをしない、それはちょっと面白いというのでやるのであります。ところが仏教はちょっと面白いという時期はすでに遠き過去にある、今は実際問題に立ち入っている、宗教の行き詰りを打開せんとする努力時代である。一切経の一冊読むにも一千頁は読まなくてはならぬ、自然に深入りして、仏教の蘊奥とまではいかなくても大分詳しい所まで調べようというようなことになって来たのであります。
文化事業もいろいろに出来ました。日仏文化事業も、仏教字典を編纂する。日獨文化事業も、大乗仏教に東西の融合点を見いださんとしている。日米文化学会も仏教美術に中心を置いている。何れも皆仏教を主眼としている。対支文化事業の方面もすでに仏教方面に大なる努力を払っていただいたのであるが、尚一層有意義にこの方面への進出を願いたい。仏教研究者はシナにもよほど増加したようであります。研究者の連絡を図るということが大切であるのは申すまでもないが、殊に同文同調の国風として進むために、意義深い仏教研究に資する事業を助勢するということは、時代に最も適した施設と考えるのであります。
西洋の人が日本の大乗仏教を重んずるとシナの方面にもよほど影響がある。西洋の学者の日本に対する態度を見て初めてシナ学者はわれわれと対坐して研究の態度で交際するのでありますが、そうでないと日本を教え子の如くに考える習慣がなかなか取れないのであります。全体で漢文の研究はシナ人に一歩譲るような感じがしますが、仏教の教義問題では一日の長を誇ることが出来るのである。それには仏教を正式に研究した人でなければ分らないのであります。要するに、仏教の研究に関しては第一原本が梵文と巴利文である。この両語を知ることは仏教研究の第一要件である。第二原本が西蔵文である、西蔵一切経は唐代から元代までの飜訳で、殊に句々梵文の影を留めているのであるから、梵文の原型を知るに最も必要である。厳密なる研究には必須の研究である。仏教研究の第三原本が漢文一切経である。今では仏教研究者で漢文に指を染めぬものは余儀なく後塵を拝する外はないのである。而してこの漢文仏教を
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