は唯三乗教の時代で、一乗三乗峻別して通学通行せざる時代にて、機根の勝れたる時代に相応する教えである。第三階は大小の区別なく一般に遍く行われる教義である。早くいえば第一階は機根上等の人のみに行われる教義、第二階は機根中等の人に相応する教義である。両方とも別真別正の仏法であるが、第三階は凡一覧の区別なく普真普正の仏法で普法の佛教普行の宗旨である。これは親鸞聖人、日蓮聖人の教えと似たようなものでありますが、それが隋の時代から唐の時代に行われた。隋の信行禅師が唱え出して唐の時代にまで行われたのでありますが、唐の開元時代に厳禁せられて終に無くなってしまった。
ところがその経巻が三十五部四十四巻あった。それはみなシナで焼き棄てられた。それでシナにはない訳であります。所が敦煌からこれが出て来た。それがイギリスの博物館、フランスの博物館に行っております。所がこれも日本の正倉院の正語蔵の中にだいぶある。それから宇治の興聖寺の一切経の中にもある。法隆寺の一切経の中にもある。それであるから法隆寺に一切経を読んだ日蓮聖人も、親鸞聖人も読んだのかも知れぬ。読んだ読まんは疑問として、シナで一部も無くって敦煌遺品から出た物と日本にある物とが同じである。三階教は私の刊行しつつある一切経の中に出しております。それからまた日本にのみあって非常に不審に思われておったことがあります。光明皇后が百万塔を作られた。百万塔を作られたその中に入れられた小経は慥に版になっております。それは活版であるとか、活字にして木版か、銅版か、説も分れておりますが、とにかく版本であります。これは世界最古の版本であります。どこにも例のないことである。日本だけがどうしてそんなに古く刊行法を発明したのだろうか、随分疑問とせられたものでありますが、中亜の発掘でこれよりは遅いけれども掘り出した版本があった。百万塔の版経が一番古い物であるということは変りませぬが、それから僅か遅れた物が掘り出されたのでありますから、日本独特の物でなく、版行の方法は東亜には発見されておったということは知り得るのであります。
八
それから学問としての仏教でありますが、倶舎(実在論)唯識(理想論)というような類、そういう類の註釈というものが仏教研究には大事なものでありますが、これは多くはシナで述作せられたものがシナには殆どなくなった。で赤松|連城《れんじょう》師、南條文雄博士が日本でかかる註釈を写して次第にシナに送って、そして南京の楊文会《ようぶんかい》氏がこれを出版して支那の学者は倶舎、唯識の論釈を読むことが出来るようになって、近頃唯識学者も出て研究もしております。玄奘三蔵以後に出来た唯識の研究書が本場のシナには紛失しておったのが日本には全部残っておった。でそれはシナにはなくて日本にばかりあるものと思っておりましたが、これも敦煌には残っております。こういうようなぐあいにこんなに大切な物が日本にある、その真価が向うの発掘によってますます認められたという形であります。こういうことを綜合して見まするというと、非常に大きな仏教文学というものが日本にあることになるのであります。
今一つわれわれが忘れてならないことがある。大乗の涅槃経は梵本が一冊も出て来ない。そこで小乗涅槃経によってシナ学者が偽作したものかと疑う人もあった。然るに中央アジアの出土品の中に大乗涅槃経の梵本があった、その後私は高野の無量寿院で弘法大師筆と称する梵本一軸を発見した。これは大師の筆でなく大師以前のインド人の筆である多分唐筆をもって書いたものらしい。全く大乗涅槃経の梵本の一部であった。もはや疑問はないこととなった。かくの如く仏教文学の必要な材料がたくさん存している。そしてそれを精選しての出版も四回も行われている。一つの宗教文学として、こういう偉大な文学を持っている宗教は他にはない。宗教のみならず他の方面にしても一つの題目でこれだけ大きな文学のあるということは他に類例がないであろう。仏教の偉大なる文学ということに西洋人が近頃眼を付け出したのである。
その文学が写本の侭でも残っており、大刊行物として精選して出した物も残っているということも、これも世界に類例のないことである。今まで出版しましたのは校正はするが古来の版本、写本と較べて校合して出版するということをしないのが多いのであります。なぜかと申しますと明の時代に明の皇帝が命じて校合して出したので、それをいまさら校正する必要がない。こういう説が行われた。これは困ったことだと思いました。
明治十七年出版の縮刷は相当に校合してありますが、私はどうかして古写本が校合する必要があるということを立証せんとして石山寺に参りまして、同寺の天平写本を調べました。天平時代に朝廷で写させたのは立派なものでありますが、これは余計ありませぬ。正倉院の正語蔵にあるが、その時には見ることが出来なかった。石山寺のは田舎写しの経本でありますが、とにかく天平写経である。それと較べて見たら大体分るだろうというので大般若経だけ持って行きまして石山寺で較べて見ました。そうすると石山寺に残っている写本の方が版本よりは遙かに良い。今まで度々刊行した物の中に半頁ばかりも落ちたのがある。それから文字のまるで違ったのがある。写本の方を見ると、こっちの版本の方は解することが出来ないような所が明瞭に解し得ることをも見付けましたが、その時にちょうど前のイギリス大使のサー・チャールス・エリオットがおった。この人はいま奈良に逗留して日本の大乗仏教を研究しておりますが、ちょうど私が石山寺に行って調べていると、来山して黙って私の調べを見ている。東寺でも二度きましたが青蓮院には前後三度きました。それから高野にいる時も一度きました。石山寺にいる時には二度きました。
私が「天平時代の写経を版本がいいか写本がいいか比較して見ている」といったら「結果はどうか」と尋ねる。「それは写本の方がよほどいい」というと「今まで出版する時に比較したことがあるか」「曽てなかった」「何故しないか」「理由は分らないが、古版本をそのまま用いたのである」「それじゃいよいよそれがいいということを知ったらお前はやる気か、やらぬ気か」「それはやったらどうだろうかという考えを決めようと思って見ているのだ」「それは直ぐにやらなければならぬ、これはいったい何時頃の物か」「西暦で七百五十年の奈良時代の物だ」「八世紀の物が、もし西洋にあったら、しかもそれがバイブルに関係した物であったら耶蘇教者は一寸刻みにして研究するだろう。それにこんなにたくさんあるじゃないか。天平の写経が石山寺に[#「石山寺に」は底本では「石寺山に」]十箱ある。こんなにたくさんある物を比較しないということは日本学者の恥だ。またこれを比較したが、それを出版しないということは不都合である」というような話をした。その日は帰ってまた翌日来る。同じ話をした。実は私が一切経を出版しますことを初めて決心しましたのはその時であります。それまでは費用のことを考え、出版後の売行きをも考え、今までも既に出しているのにまた出すというのは不必要だというふうにいろいろ考えておったが、写本が正しい、良いということが分り、しかも西洋人からそんなに焚付けられると、私には再考の暇もなくなって「出版する」と言った。すると「何時やるか」「何時やるかと云ってもこれから準備をして掛るから」というので、まず一番初めの賛成者にサー・チャールス・エリオットを入れた訳であります。
その頃、日獨文化協会を作るというので、ゾルフ大使はどうしても西洋と日本との連絡は大乗仏教に依らなければならぬから、それが出来ない以上はどうしても真実の親密というものは出来ないから、そのために日獨文化協会を興すということであった。その時この一切経の話を聞いて、サー・チャールス・エリオットから聞いたらしい。私が訪ねて行った時に日獨文化協会のことは話さず、一切経のことを話した。ゾルフも梵語学者でありまして、梵語の教授になる積りだったらしいのでありますが、そういう訳で興味も深い。「どうしてもやらなければならぬ、西洋人が安心して読めるような、出来得るだけの対校もしてあって、しかもその対校が行き届いておって学術的に値うちのあるような一切経を作らなければならぬ、それを作るのにはお前が一番適任者だ」というふうに、二人から盛んに焚付けられて、そのためにゾルフ氏もまず賛成者として始めたのであります。不規則の始めようでありましたからどうかと思っていましたが、無事に五十五巻を即ち第一期を出したということは私自身夢のようであります。一文なしで、しかも拵え始めるとすぐその年に震災に遭うて、そして払い込んで貰った予約金というものはみな焼棄ててしまった。とても仕方がない、止めてしまおうという艱難まで嘗めましたが、一文なしでこんなことが出来るとは思わなかったが、しかもその一文なしで百八十万円の仕事が出来るということを私が証拠立てたというので、稚気の誇りを感じているのであります。
いま十万ばかりの借財が残っておりますが、これはその全体の仕事に比べて見れば何でもない。それは二百部売れば償える。何時か売れるだろう、何時か売れたら返せばよい。向うから破産の申請のない限りは安心して進んでいる。それにいろいろの方面からのご厚意あるお助けもありまして、どうかこうか凌いで終りまでいくだろうと思っておりますが、いかない時には無理もない、一文無しでやったのだとお許しが願いたい。今度のを一緒にしたら二百五十万円ぐらいの仕事になるだろうと思います。一文なしで二百五十万の仕事をやったらそれは倒れるのがあたりまえで、倒れても当然とご批判を願いたいのであります。
しかし大刊行物たるに違いないので、これに索引が出来ますと、これはインドを見る鏡のようなもので、インドの研究はシナの一切経を研究しなければ分らぬというて差支えない。それを研究しなければ最後の断案を下すことが出来ないといってよい。思想方面は殊にそうである。インドの思想方面というものがヨーロッパの人の着目している所で、ヨーロッパの倫理も行き詰まり、宗教も行き詰まり、すべてに行き詰まって、それまで馬鹿にしておったインドの説を聴かなければならぬような時期になっている。インドに行って思想を研究しようと思うと、インドの山の中に入らなければならぬ。しかもインド人は西洋人の手では、一向要領を得ることが出来ないが、その思想の写真が一切経という大きなものになって、しかもそれが間違いのない遺憾のないという点まで押し付けての研究が出来る。まず自分で手に握ることの出来るものでインドを研究する。前は歴史的のまた地理的のことはシナの法顕三蔵、玄奘三蔵、義浄三蔵の書いたものによってインドの研究を始めたのでありますが、今度細かい内容の思想までも知ろうとするにはどうしても一切経に依らなければならぬ。それで北京に於てはバロン・ステール・ホルンスタインがアメリカと連絡をとって研究所を建ててやっておりますが、大きな研究会を作って、ボストンとハーバードと北京とで連絡をとってやっておりますが、どうしても日本を棄てる訳にいかない。というのはこれだけの材料が日本にあり、この材料を読みこなすことはどうしても西洋人には出来ない。どうしてもこれを研究いたしますのには西蔵語を知らなければならぬ。サンスクリットを知らなければならぬ。漢文は自由に読めなければならぬ。また信仰的にも学術的にも相当仏教のことを知っておらなければならぬ。だからいくら賢明の西洋人でも一人ではやり遂げることは出来ない。一人仏教の分るものを北京に招致したいということであったので成田昌信君が行っております。材料だけは日本で整理してやりたいという考えでありますが、向うもなかなか放っておかない。
日仏会館ではフランスからレビー氏とか、フシエ氏とか、マスベロ氏というような学者が来て相助けて日仏仏教辞書の編纂中であります。日本の仏教辞書をフランス語に訳して日仏仏教辞典法宝義林をいま
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