それで分ったのです。霊仙訳と書いてあるのであります。この人だけは三蔵法師と称せられておった。
こういうふうにシナでたくさん訳出されまして日本に伝えたのでありますが、それを日本に伝えたのはまだ印刷しない前の一切経は玄※[#「日+方」、第3水準1−85−13]僧正が唐の玄宗皇帝の時開元時代の写本一切経五千四十八巻全部携えて還って来たのであります。これは非常な努力であったろうと思うのであります。それで天平八年に帰ってきました。五千四十八巻の一切経で聖武天皇に献上した。そして聖武天皇の願経というものがありますが、朝廷からの特命で写さしめられた御経であります。この時のが日本に正式に一冊残らず全部渡って来た最初であると思います。これは玄※[#「日+方」、第3水準1−85−13]僧正の将来であります。これが全一切経の根本になります。シナでは勅修――陛下が勅して拵えられる一切経、一切経を写すという事業が十五回ほど行われております。それから宋の太守の時初めて版にしました。即ち一切経は宋の時代になると翻訳時代は終って刊行時代となった。そして今までシナでは十四版までも刊行しました。朝鮮で二回、日本で今まで五回版にしております。
それほどたくさん版にされた漢訳の一切経でありますが、それほど力を尽された本場のシナには漢訳の一切経が一版も完全には存していないといってよい。といってはあまりひどいのでありますが、明の一切経は或いは残っておるであろうと思います。清の竜蔵もあるべき筈である。西蔵の一切経、蒙古の一切経もある筈である、が責任をもって保存していないという意味で完全していないというのであります。しかし近頃私が一切経の中に出しました書物の中にも非常に良い書物がある。唐宋の時代の書物がシナで発見せられ朝鮮で発見せられたものもある。広いシナでありますから決してないということは申上げられませんけれども、まず全体として存していない。ところが日本には何れの時代の版も、朝鮮の版もシナの版も日本の版もみな完全に残っているのであります。これは大いにわれわれの誇りとすべきものであります。
また西蔵の一切経もあり蒙古のもあり満州のもある。満州の一切経はシナにもう一部あるかないかというくらいかと思いますが、元三部あって一部はロシアとフランスに分けられております。一部は奉天の黄寺にあるということでありましたから、ちょうど日露戦争の時に私は末松男爵に随ってロンドンに三年戦争中に渡って滞在した時があり、まだ戦争が始まらぬ前に、日本を出る時どうせ奉天も日本の兵が占領するに違いないから、黄寺にある満洲経をどうか日本に取り寄せることが出来れば取って戴くことを願うということを時の宮内大臣に申し送った。宮内大臣もそれを諒とせられ、だんだん日本軍の進むに従って出先の山懸参軍にその事を申し送り一切経収容のことを希望された。然るに「今度の戦争は正義の戦争で分取りに類することは一切しない。殊にシナの中立地帯からたとえそれが大切なものであっても、これを無償で取るということは一切出来ない、これは陛下の思召しと雖もお断り申してくれ」ということであった。それを宮内大臣が明治天皇陛下に申上げられたところ、それほど大切な物なら内帑の金で買ってやれ、と仰せになって御内帑金二万円をお出しになって満洲の一切経を買入れの上大学にお下げになって頂戴したのであります。
そうして日露戦後私は帰って見たところ満洲経として下げられたのは満洲の一切経でなくて蒙古の一切経であった。蒙古蔵ならばまだ幾つもある、満洲蔵は三つしかないその一つを得るのだから大切と思っていたのだから。その時内藤湖南君が朝日新聞から満洲に行くということであったので実地について調べて貰った。行って見るとその侭にある。ところが黄寺の方では無論分取られると思っておったのにお金を戴いたものでありますから、満洲経は景物としてその侭差し上げましょうということで、陛下のお蔭で満洲経と蒙古経と両大蔵を得たのであります。それを両方とも大学へお下げを戴いた、私は非常に喜んだのであります。その後振天府に入れてありました西蔵の一切経、これも要るなら下げてやろうということでこれも有難く下げて戴いたのであります。
私はインド雪山の尼波羅《ニポール》国に行きまして梵本の一切経を買い集め随分苦労をして七百部ばかり得た、今では梵本は日本が一番多くを所持している。それまでに満洲のお経を担ぎ込み、蒙古のお経を担ぎ込み、西蔵のを担ぎ込んだ。これらの陛下からお下げ戴いたものを私が担ぎ込んだかの如く厄介視して、場所がないのにこういう読みもしない物を持って来るのは不都合だというので、梵本の一切経は図書館では受取って呉れない。その上にマックス・ミュラー文庫を岩崎男に依頼し買って貰って大学に入れた。この目録もまだ出来ないのにまた雪山から梵本を七百部も持って来るのは不都合だと言わぬばかりに図書館から排斥せられ、時の総長の計らいで梵語研究室に置くこととなった。仕方なく自分の教室に保管した。そして毎年講義の時には梵経所得の苦労を一度は必ず話した。インドの鉄道を離れて、七十五哩山駕籠に乗って、高山を二つも越して雪山の中に入って、そこで集めたものであると自慢まじりの話をする。学生同志では袖を引いてもうあの話が出たか、いやまだ出ない、今に出るから見ていろというふうで、私が話し出すとみな見合って笑っているというような有様。所がこれが震災に役に立ち梵本が助かる因となった。
震災の時にはいよいよ火が教室に燃え移った。そうするとその時に京都の高等学校からベース・ボールのために来て一高に宿しておった学生が逸早く駈けつけて私の教室にきて見た、巡査の剣で戸を破って中に入った。そして金塗りの洋書などをまず運び出しつつある、所が私の講義を聴いた学生が駈け付けて、「そんなのは大切じゃない、これが大切だ」と示した。梵本はみな赤い風呂敷に包んである。これを運び出すことにした。教室の外部にはコンクリートの溝がある、これに板を渡して溝を越えて庭前に運び出す、これは平生からの訓練であった、その通りにやって呉れました。それでその翌日私が行って見るとそこに高く積み上げてある。そこには避難民がやってきて、きれいな紙は持って行って使用する、火のたきつけに用いる、雑巾の代りに用いる、次第に消え失せつつある。所が今のフランネルのような布で包んである梵本は焚くと臭いから火を焚くには用いない。雨にさらされている梵本をすっかり集めて選び分けて調べると、七百三十部あったのが六百八十部くらい残っている。紛失したのは一割に足らない。殆ど全部残っているといって宜しい。それで非常に私は喜びまして、書物が無くなったら辞職しようといっていたのをとうとう停年まで生き延びるようになったのであります。
六
イギリスはインドの南方仏教小乗の一切経を出版しております。ロシアでは大乗一切経の梵語の原本を出版しております。これは帝政時代から出版しておりましたが赤化ロシアになっても今も続いて出版しております。赤化ロシアの方が他の国よりもよほど理解があるといって梵語学者の仲間では賞讃しております。シャムの皇帝は曽て小乗の一切経を出版され世界の学界に提供した。後にまた註釈全部を出版して世に弘めた。ビルマでは有志が出版し、セイロンでも有志が出版して普及を計っている。
古代の出版から近時の出版まで合せますと三十の一切経があります。でこれは古い写本、版本みな大切でありますが、近時学者の手に成った校本も研究には欠くべからざるものであります。それをみな集めようというのがわれわれの野心であったのであります。その中で図書館に入っていたのは焼けましたのが多いのであるが、他に本願寺にもあるし、東北大学にもある。とにかく日本には三十の一切経がことごとく存在しております。これはわれわれの誇りとすべき事柄であると私は考えます。インドで出来た一切経もインドの本国にはありませぬ。シナで翻訳され刊行された一切経もシナには残っていない。日本まで文化が押し寄せてきて、それからは決口《はけぐち》がないから日本には全く留ったという訳であります。それから日本の古寺院に、非常に面白い図書が残っておりますが、その残っているものの中に近頃中央アジアの発掘によって知られたものは日本に存在していることが分った。日本はこれがために重きを為すことになったのである。
これも序にお話したいと思いますが、中央アジアの発掘ということは世界に動搖を与えた学術上の大事件であります。日本は東方に偏在しているのでそんなことには関係ないであろうというように考えられるかも知れぬが、シナで無くなったもの、シナ四百余州に見つからぬものが日本にあり、中央アジアで発掘された出土品と日本にある保存物とを比較すると同一物である。それでシナ本国になくて日本に残っている古書は、西洋人は或いは偽作だといっておったものもあります。今度中央アジアから掘り出されて来ると日本のものと同じで偽作でなく真物であるということが分った。その二、三の例を申し上げますと、梵本というのは古いものは棕櫚の葉に書いた物である。これを貝葉《ばいよう》梵本と申します。それが日本には非常に古い物があります。今のインド人は日々用いつつある梵字は知っているが昔の梵字は知らない。然るに発掘品から見ると昔の梵字は日本に伝わるものと同一である。日本の梵字の形を見ますと中には四、五世紀頃のもある、推古時代奈良朝以前のインドのものが日本に将来されているのであります。それを一々調査しまして写真に撮っております。
まず最古のものは、河内高貴寺、大阪四天王寺、近江玉泉寺、京都百万遍知恩寺にある。大和法隆寺(御物)大和海竜王寺所蔵のものはこれに次ぎ、京都東寺、粟田口青蓮院、嵯峨清涼寺、坂本来迎寺所蔵のもの略これと同じく、また貝葉でなく紙本梵文にも逸品がある。三井園城寺大日経真言梵本一冊、河内金剛寺普賢行願讃一冊、高野山無量寿院大涅槃経一軸がある。いつか刊行したいと思っております、四天王寺に貝葉梵本があるという記録を見て寺に掛け合った所が「あるには相違ないが新しい物でとてもご参考にはならぬ」という返事がきた。それでも古い記録にあるからそれは大切な物に違いないと考えて行って見ますと、それがやはり最も古い四世紀頃の梵本である。そういうのがまだたくさんあるだろうと思いますが、今までに見つけ出した物だけでも以上の通りであります。字形でいったならば中央アジアで掘り出した物と文字の形が似ているから古物だということを何人も信じますが、日本だけにあった時にはこれはいつごろの物かも分らないし、真価も知れないのであります。こういう貴重品が日本に相当あるのであります。
名前はお聞きになったこともあるでありましょうが善悪因果経という経がある。奈良朝時代に因果経の上部に絵が描いて色彩も麗わしく時価も非常に高いものがある。一枚が万金以上に価する。名宝展に久邇宮家の所蔵品が出されておりました。藤田男爵にも一枚、美術学校にも一葉あります。因果経という本は奈良朝にそれくらい行われておったにも係らずそれが一切経の中に入れてない。シナでは十五回も勅修があり、また十四回も印刷したのにこれが入れてないから、或いは日本で作ったものだというようなことを言っておったが、それが中央アジアで発掘されて全部が出土した。それが漢訳が全部出たのみならず胡語ソクデヤ(※[#「穴かんむり/卒」、第4水準2−83−16]利)の言語で翻訳した物が出た。ソクデヤというのはギリシャ人とペルシャ人と一緒になったような人種であります。西域に住んでおりましたが、その言葉に訳翻されている因果経である。日本の偽作と言われたが同一の物が漢語胡語に訳せられて、それが発掘されたというのは大変面白いことだと思います。
七
それから三階教という仏教の一派がシナにあった。これは仏教の異端であります。仏教を三階に分けて仏教の第一期は唯一乗教の時代、第二期
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