講会ともいい、一切経の書写、供養、もしくは転読の法会であるが、この法道が宮中で初めてこれを行ったのであります。それから説戒会も行われた。これは一週間に一度戒律を読んで復習し、それに触れたものがあるならば告白懺悔する。そういう儀式を説戒会といい、または布薩会《ふさつえ》または斎会というこれが宮中で行われた、これが今の日曜学校に当ります。これは仏教の最初からあることであります。
 それから無遮会、それは誰がきても拒まず接待をする。この無遮会は五年に一回国王に依って行われる例であった。これを宮中で行ったのであります。それからまた外の斎会も宮中で行っている。その当時までは仏教行わるると雖も唯単なる学問的のことであったのだが、これからは本当の信者が多くなったと書いてある。法道はかくの如く仏教の上には大なる勢力を持ったのであります。のみならず祇園精舎の牛頭天王を持ち来ったものでありますから、祇園の祭の様式は皆これが教えたのであります。御旅所といって神さまが一週間ばかり他所に出張しておられる。その往来の行列はインドの式で「ヤートラ」と申しまして行像と訳します。それが行列を為し矛《ほこ》を出し、山《やま》を出し、矢台《やたい》を出すというような儀式、これは皆インドの儀式に相違ない。それを教えまたいろいろそれに関しての作法も教えたのであろうと思うが、平安朝になって貞観十八年円如法師が広峰山から牛頭天王を招待して、京都の今の八坂神社の所に移した、これを感神院祇園社と謂う。これは新羅の牛頭山に在ます素盞嗚《スサノオ》尊を勧請して祭ったともいう。ともかくインドの牛頭天王と合祭してある。それが維新後神仏判然の時代となり仏教系の神を棄てた、八坂神社の前に牛頭天王と書いた額面は取除くことを忘れた。
 牛頭天王と素盞嗚尊とうまいぐあいに関係を付けたと思いますのは、牛頭天王も素盞嗚尊も朝鮮に行かれた、また出られたともいう。朝鮮の牛頭里いまは「ソシモリ」というが、ソシというのは牛ということで、モリというのは頭という意味に相違ない。頭を「おつむり」というから「モリ」は頭の意と思います。それでソシモリの里、即ち牛頭山に素盞嗚尊がおられた。素盞嗚尊というのも「スサ」というのは牛の意かも知れない。ところが牛頭天王は祇園精舎の鎮守の神であるが、インド祇園の山の名前は知れていないが多分牛頭山といったに相違ない。牛頭山は雪山の尼波羅国にもある、中アのコータンにもあった。シナには牛頭山、牛角山というのが三カ所もある。新羅にもあるべきである。これが牛頭里であると思う。この法道は王舎城の人であるのに、祇園精舎の鎮守を持って来て、なぜ王舎城の鎮守を持って来なかったろうかと考えて見ますと、やはり持ってきております。これは書いたものはありませぬけれども金毘羅社である。金毘羅神というのは王舎城の鎮守で王舎城の北の出口の所にある、向って左の山がちょうど象の頭によく似ている、これが象頭《ぞうづ》山というのである。一名は毘富羅《ヒブラ》山ともいう。象頭山の金比羅夜叉といってこれが王舎城の鎮守である。そして讃岐の象頭山にも金毘羅を祭り、そして内海を進んで赤穂から上陸して広峰の牛頭社を立てたのであろう。
 たいてい仏教と一緒に渡来した神様ならば「儀軌」といって祭式が明らかに教えられてある筈である。神様を拝む特別の方法が教えてあるのであるが、金毘羅に関してはそういふ儀軌がない。経もあるが偽書である。多分法道がインドから日本に着して赤穂に上陸する前に金比羅神を讃州の象頭山に祭り、牛頭天王を上陸後広峰に祭ったのであろうと思う。そういうふうにいろいろとインドと直接の関係があるのであります。こういうふうに考えていくと仏教、風俗、儀式、美術、薬物、遊戯に至るまで辿って行けば面白い研究でありますが今日はそれくらいにしておきまして、インド文明の大波が北と南とを通って東方に移って来たことを今少し話したい。普通はシナに一応伝わりもしくは朝鮮に伝わったのを日本が受けたのでありますが、そうでなく前に述べたように直接にインド人が日本にきて伝えたものも相当ある。そしてこれは実地に移したのでありますから日本にとって非常に深い関係を持つのであるということを知っておかなければならぬのであります。而して然らば今日の主題たる一切経がどういうぐあいに日本にきたかということを述べ、そしてどうして出版する運びになったかということを少しお話いたしたいと思うのであります。

         五

 仏が涅槃に入られる時に、「我入滅すとも我所説の法は滅不滅である、我所説の法以て汝が師と為せよ」といわれた。自分の肉身、即ち親身は滅しても法身は常住である、肉としての自身は亡びても法としての自身を大切にせよと言われたのである。それを字義通りに大切にするために佛が滅せられた年の七月に大迦葉が五百の仏弟子を集めて一切経を結集したのであります。一切経というものは仏が一代の中に説かれたもので、その中に自分が自発的に説かれ、自分の理想を説き出されたものが「経」というので、昔はこれを単に法といっていた。法というのは理想というのでありますから、仏法というのは仏の理想、説法というのは仏が理想を説かれる、転法輪というのは仏が理想の輪を社会に転進して理想を実現せられるというような意味である。法界というのは仏の理想の行われる世界である。法身とは仏の理想のみの身ということである。昔は法といったが今は経といっております。
 所が自分が自発的でなく、弟子が罪悪を犯すに随って制した戒律がある。生きた物を殺す、そういう行ないはしてはならぬと制せられたもの、それが法典となっているのであります。これを戒律といい律蔵という。経蔵というのは御経の蔵、律蔵は戒律の蔵、戒律を納めた文庫である。法典といえば国法とか、国の習慣とか歴史とかいうようなものを顧慮して作るものである。然るにこれらは一切構わないで真の理想から出たものが仏教の法典である。花井卓蔵博士も仏教の法典は純正な理想法典であるから重きをおかなければならぬということをいっております。論蔵というのは、仏弟子の作ったものである。この経律論を合せて三蔵という、三つの蔵に納めて区別する意味である、これが一切経である。一切というのは経ばかりではない、経律論の三つを三蔵といい又大蔵というのである。一切経、大蔵経というのは実は経ばかりではないが、主たるものについて名を立てたのである。その三蔵をみな知っているのを三蔵法師と名づける。
 玄奘三蔵とか、義浄三蔵とかいう人がそれであります。その一切経の初めは迦葉が、仏が自分の説いた法を以て師匠とせよといわれたのに基づいて、その仰せを守って仏弟子五百人を集めて仏の説かれた法を集めて一切経を拵えた、そしてこれだけ仏の教えがあったとして残したのであります。残したといっても仏の入滅せられた年から凡そ四百七、八十年の間は文字にも何にも書いてなかった、無字の一切経で文字なしに空に覚えておったのである。するとそれじゃ怪しいものだという人があるでありましょうが、インドはなかなか怪しくない。バラモンの教えには三|吠陀《ベーダ》といって十万頌もあるものを今まで曽て書いたことはない、口から耳に伝えているのであります。それは一音々々を順に読み習い、またそれを逆に読み習い、また第一字から第三字、第五字から第七字というように文字を飛んで習い、それから第二字と第四字、第六字と第八字というように読み、それを合せて覚えるというふうに、記憶の方法は至れり尽せりで、練習に練習を重ねて覚えているのであるから忘れるだろうというようなご心配は要らない。しかしかかる大変なものを頭の中に詰め込んでおこうとする努力は非常にインド人には強いのでありますが、一方それがためにインドの文明は停滞するようになってきたのである。シナでは文字を覚えなければならぬ、それがために俊才は文字を覚えまたこれを使うのに非常に頭を労するので文明が自然停滞するようになったという学者もあるのでありますが、かかる努力の偏重はよほど文化に関係することであろうと思います。
 とにかく仏教の方は四百年しか覚えることが出来なかったが、バラモン教の方は今に至る四千年間覚えているのであります。バラモンはこれを本職としているのであります。そういうことを専門にしているのがバラモン族であるが、仏教はそうでなく、昨日まで百姓をしておった者も、バラモン族も、王族も、男も女も皆入るのでありますから覚えておれといってもなかなか困難である、そこで紀元前八年頃に一切経を文字に書き残しました。それから以後その通りを守っているのが是が小乗の一切経であります。セイロン、ビルマ、シャム、カンボジャの一切経も同じことであります。同じ一切経を死守しております。それより他のものは一切入れない、その時に決めた通りを今に守っております。これがインドの小乗一切経である。
 所が大乗という方はそんなことをしない。一所に集成してこれが大乗の一切経でございというようなことはいわない。それでありますからどんな形であったか分らない。全部で幾らあったかも分らない。それでインドで出来た小乗一切経はシナに一冊も来ないといってよい。たくさんきておることはきておりますが、向うで一切経だといっているものは一冊もきておりませぬ。たった一冊「善見律」というのを訳したのがありましたのを私が発見した。二冊目を探そうとしても見出せない。そのくらい一切経を一遍にシナに持ってきたということはない。インドからシナに来る人が持って来る。また玄奘三蔵とか法顕三蔵というような人がインドに旅行して持って帰る。少しずつ持ってきたのを翻訳した。後漢の時代から宋の時代までに、九百六十年間に百七十余人の学者が、その中にはシナ人もいるしインド人もおりますが、九百六十年の永の年月かかって翻訳したのであります。それを集めて見ると広大な一切経となり、経もあり、律もあり、論もあってあれだけの大部の物となりました。シナに持って来る時にこれは本当の物だと思っても嘘の物もあったかも知れない。シナに持ってきてから偽作した物もあるかも知れない。インドの偽作という物は尚更多いかも知れない。偽作があるからいけないということをいう人もあります。
 小乗の方の人はちゃんと決めたままそのままを持っているからこれが正しいこれが歴史的である、これが原始仏教的であり根本仏教であるといって非常に西洋人には評判が良かったのでありますが、私はそんなことは関係しない。仏に説かれて、それを守っておったのであるとしても、初めには文字がない時が四百年間もあった。どうせ説かれた通りであろう筈がない。それに偽作もあってこそ本当の思想も分りまた各時代の思想を見ることが出来る、偽作と偽作でないのとを比較区別するということが研究なので、本当の物だけであると研究も何も要らない。それでありますから一切経はまあたくさんあるだけよい、遅い物も早い物も一緒にあるのがよい、こういうように見たいと思うのであります。
 それで百七十人の人が訳したのでありますがその中にたった一人日本人がいる、これはわれわれ忘れてはならない人で、奈良の興福寺から留学した霊仙法師、これが弘法大師、伝教大師などと一緒に入唐した、若いのに偉かってシナ学僧の上座に立ちて訳場の首席であった。そのため嫉みを受けて五台山に逃げて行っている中に朝鮮人に毒を盛られて殺されてしまった。その死ぬる時に五台山停点普通院の壁上に左の手記あるを慈覚大師が発見せられた、「日本国内供奉翻経大徳霊仙元和十五年九月十五日到此蘭若」としてあった。それから持っておった物などは常暁律師がシナに留学した時にシナ人弟子から受け取って還った。大元帥法という仏教の儀式は霊仙の教えた所である。霊仙はインドから来た般若三蔵の下に在って心地観経を訳した。この経は四恩のことを書いてある大切な経であります。これはシナの一切経には霊仙三蔵が訳したとは書いてない、その訳した時に自分で写して日本の皇室に奉ったのが石山寺に残っている、
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