音楽師が、一緒になって拍子をとって踊った。ところがそれを聞いて後ろの山におった老人は、この老人は裸で始終寝ておって、東大寺の方を始終見ている、そこで当時の人は「伏見の翁」といっておった。この翁は不思議な男で嘗て物を言ったことがない、唖だと思われておったのに、いまインドから拍子をとって唄い踊っているのを聞いて、その音楽が分ったと見えて丘から下りて来て、一緒に自分も踊り出した。「時なる哉、時なる哉、時至れり」といって踊り出した。これもインド人であったに相違ない。行基は両人を聖武天皇にご紹介するという訳で、聖武天皇も非常に満足であった。これは大仏を作って開眼供養にインド人を招くということが聖武天皇の思召でインド人を迎える内命を持った留学生がシナに出張しておったものと信ぜられます。五台山に登っても日本に来るように計らい、楊州に行っても日本人に会するように聖武天皇のお手が延びておったのだろうと思います。
 それでバラモン僧正が来ると直ぐ僧正に任ぜられて、時服を賜い荘田を与えられて大安寺に寓せしめられた。大仏が立つ時になると、バラモン僧正は開眼供養の大導師を命ぜられ、臨邑の仏哲に大音楽師として楽隊の長とならしめられた。そして開眼供養を行われる。東大寺の開基というのは聖武天皇とバラモン僧正、行基。行基は建った時には死んでおりますから、開眼供養には臨まなかったのですが、これも開山に加えられている。それからいま一人は行基の弟子で一番偉い良弁僧正、この四人が開基になっている。そういうふうに非常に用いられて、バラモン僧正は大安寺で、仏哲と同住して音楽を教え、梵語を教えた。仏哲の梵語の文典が徳川時代まであったことは確かでありますから、古い寺々を探しましたがどうしても見つからない。他書に見ゆる引文からどんなものであったかということは分ります。文典が残るくらいでありますから梵語を教えたということは確かであります。それから一切経の中から歌唱の文句を撰出して音楽の囀(歌詞)とするのは僧正の役で、これを舞楽に編み込み舞踊の型を作るのは仏哲の仕事であった。
 後には朝廷の音楽の中に「臨邑楽」というものを付け加えられそして盛んに教えられ、伎楽に代る舞楽全盛の時代となった。それが今日まで残っているのであります。こういうふうに音楽も教え梵語も教えてインド人、准インド人が奈良には居住しておったのであります。それでご承知の五十音の図でありますが、あの図は梵語の字音の並べ方の通りであります。あれは吉備真備が作ったというようなことを伝えているのでありますが、そうではなくて、この二人が教えておった梵語の表が自然に日本の言葉に移ってそうして五十音図表が出来たのだと思うのであります。而してまたかかる人が奈良におったのでありますから言葉も多少輸入され、日本の国語も影響を受けずにはおらない。今はちょうど二月で如月でありますが、木更衣とも書きます。木が衣物を着換えるというような意味で、木の芽立ちのことをいったのかも知れない。「キサライ」というのは梵語でそのまま「木の芽立ち」という語であります。これは月の名ではないが、この言葉が移ったのだと思います。ここに現に梵語を教えつつある人があり、また伏見の翁もインド人らしいのでありますから、教えて貰う人はどうしてもその勢力を受ける。かように日本語の中に梵語が入っているのは、ただ仏教と一緒に来たのではなく直接受取ったということが分るのであります。
 御経の中に見当らない言葉がたくさんある。例えば瓦というものはこれは梵語の「カパラ」である。これは御経の中を見ても出て来るものではない、その時まで草葺であったのが瓦葺が出来るようになった、これはインドでなんというか、それは「カパラ」であると教えられる。それから瓦という日本語が出来てきた。私共が小学校に行っていた明治八年頃に、掛図がありまして、掛図の一番初めの図に「瓦」がありました。なぜ「カハラ」と書かなければならぬかというと、それはカハラだからカハラと書かなければならぬ、こういう仮名遣いだから仕方がないというふうに教えられたのであります。が、それは元がカパラであったからそれが柔らかくなっても、カハラと書いて根本のパの音を残している。
 日本のハヒフヘホの音は元はP音であった証拠には、北の方で大平山を今でも「おうぴらやま」といっているので分る。また琉球では「大きに」というのを「オホキニ」と言っている。また大きな瓦を「イラカ」(甍)と申しますがこれも梵語であります。日常用いる物から眼に付くような物はたいてい梵語でいう。それからまた隠し言葉にもある。学林の中であらわにいうと気の毒なことがある。例えば酒のことを般若湯といって見たり、甘露水といって見たり香水といったりするのはみな隠し言葉である。一例を申しますと鼻のない人が来ると「カサ」がきたという。「カサ」とか「クサ」とかいうのはインド語であって、今では「カサ」というとすぐ分りますがその当時は梵語でカサといえば向うには分らないでお互いには通ずる。それから疱瘡を患った人を「アバタ」というが、疱瘡という語は「アブタ」、それがアバタとなって、アバタがきたといえば疱瘡を患った人がきたという意味である。それから今では馬鹿といえば誰でも怒りますが、馬鹿という語にはいろいろ説がありますが、インドでは馬鹿の表現が青鷺である。青鷺を「バカ」といいます、それが馬鹿ということになったのであろうと思います。しかしこれには新村博士の説には慕何と云う梵語の訛りだという説を採用すべきであるとのことである。男子の隠し所の名前も隠語から転じたのであります。それから寺の庫裡という言葉、これは煙出しのある家という梵語「クテイ」で、庫というのも梵語らしい、厨も同じ梵語かと思われます。たいていラの字の付いたものは梵語が多いのであります。
 私は近頃糖尿病を患いました、この病気には木※[#「木+忽」、415−8]がいいのでありますが、ラという音があるのでこれは梵語に違いないとだんだん探していきました所が、インドで苦い木、苦味のある※[#「木+忽」、415−9]を薬に用いる。それはタラタンの木で糖尿にもいいし胃にも腸にもよい、また神経痛にもよい。それでその根はタラコンと称し村井弦斎氏が胃腸の薬に用いている。御殿場に仏教女子青年館の会館が出來て私はそこに行っていることが多いのでありますが、糖尿になってから※[#「木+忽」、415−12]の木を切って皮を薬にして飲んでおりますが、非常によいのであります。まず胃にいい、腸にいい、それから刻んで風呂に入れると神経痛に宜しい、それでタラタン湯と号して飲薬にも薬湯にも用いております。
 それから訶林という木がある。これもインドの言葉であります。こういうような言葉はシナからきたのも多いのでありますが、猿のことを「マシラ」というのは摩期羅を漢字で摩斯羅としたから起こったらしい。軍神を建駄天というのを韋駄天と書いたから訛ったのであります。鼓というのはヅンドビまたはドドビの転である。みなインド語であります。それから饅頭というのも梵語であります。それから寺というのはこれは朝鮮のツオーラの転といいますが、これはまたインドの言葉から変化してきたのだと思います。長老を「テーラ」といいますからこれに家の字を付けて寺家、今の寺家というのと同じことであったと信ずる。それと同じことであったと信ずる。それと同じ浮屠というのは仏のことでありますが、シナでフトというから、それに家を付けて浮屠家《ふとけ》といったのが「ほとけ」の名だと思います。そういうぐあいに、皿も梵語、幡も梵語である。閼伽(水)ももちろん梵語である、旦那も施主の意味で梵語である。そこにバラモンがおりましたので直接間接に教わったものと見ることが出来るのであります。萬葉集にこういう短歌がありますが、その意味は近頃まで解釈が出来なかった。
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バラモンの作れる小田をはむ烏
   まなぶたはれてはたほこに居り
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 この歌の意味が古人には分らなかった。バラモンが奈良朝に荘園を貰って田を作っていたということが分ればこれは何でもないことでありますが、そのバラモンの作った田をはむ烏までもバラモンの説教の感化を受けて、まなぶたはれて即ち涙を澪してはたほこに止っている、「ハタ」というのもインド語です。仏教の習慣では説法する時は法幢を建てるといって幡を立てて説法する。萬葉時代にバラモンの活躍という事実があったことを知ればかく解るのは適当と思います。それから骰子の遊び、これもインドから移って来たもので、サイコロの「サイ」というのは、博奕のことをパラサイというのでこれを略した名である。パラサイというのはこの遊びのインド語であります。萬葉の時には「カリ」という博奕があった、これは梵語でカリというのは一点を付けた骰子の名である。「コロ」というのは梵語で「クル」というのは「成就せよ」「出て来い」というような意味であるから転ばす時に「クル」といって投げ、望みの目が出た時は「クリタ」(成就した)という。クリタは四点の目で勝利を示すのである。この勝負に敗けたら酒を賭けるというのは酒づく、といい、人を泊らせる約束を寝づく、米を賭けるのを米づくという。この言葉もやはり梵語から来たのだと思います。ヅフ即ち搾取する意である。それから天平時代に、今のバラモン僧正より前からあるのでありますが、密陀絵という絵風がある油絵である。
 推古天皇の玉蟲の厨子も密陀絵であります、これはペルシャの言葉で「ムルダーセン」というのである。これは薬の名で、同時に絵の具に用いたものであった。この時代に鑑真和尚の医力が行われた、その薬に阿伽陀薬というのがある、アカダは毒消しの薬である。これも梵語である。万葉集にもある綿の名もインド直接ではないが中亜からきた語である。近時発掘したコータンという地がある。昔の名は豁旦《かったん》で、後には于※[#「門<眞」、第3水準1−93−54]といった、この国が絹の本場である、この国名が綿の名に顕われてカッタン又はコットンとなった。始めは絹綿であったが後には木綿となった、連音となったのでハタが木綿となってキハタ、キワタルと転じた、ワタとハタは同名である。織る材料もハタ(ワタ)といい、織った帛もハタといった、織る機械もハタといい、織る人をも秦(ハタ)と称した。これは皆コータンの地名からきたものと思う。
 こういうふうに探していったらまだたくさんありましょう。そしてこれはちょっと要らぬことのようでありますが、これが日本の国語または文化によほど関係があるということをお話しようと思って申上げたのであります。
 先にお話しましたように舞楽が今に残っており、その中にインドの舞楽があるのでありますが、それが臨邑からきた臨邑八楽が主であった。奈良朝の末頃になるとこれを娯楽に用いるようになった。法楽ばかりでなくこれを娯楽に用いるようになった。それがだんだん変って後の催馬楽にも、猿楽にも、能にも、狂言にも、影響して時代の音楽趣味を支配しながら、舞楽自身も元の侭でも残りまたその影響を受けた俗楽も今に残っているというふうであります。

         四

 これより前にもインド人が日本に来ております。摩迦陀国王舎城から出て来た法道という人がある。日本の文化に大なる影響を与えた人であります。播州の赤穂から上陸して法華経山または広峰山という山がある。そこに籠りまして、インドから持って来た仏天を祭っている。牛頭《ごづ》天王は祇園精舎の鎮守の神であるが、それに観音を礼拝していたのである。孝徳天皇がご病気であったので、宮中に参内して修法をした結果終にご恢復遊ばされた。その時に皇子が五人おいでになったのでありますが、五王子が陛下にお降りになって、父天皇の病気平癒に功能があったというので皆一同羅拝なされたということである。五王子羅拝の謝意を受けたのである。而して宮中に三カ月も留まりその間に仏教の様式を伝えたのであります。大蔵会というのはまた一切経
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