思汗の勢力であります。
 それでありますからロシアの貴族の中にはわれわれと同じような顔をした人がたくさんおったのであります。それはその時の地方を治めた蒙古の可汗の後裔が伯子男爵となっておったのであった、そういうふうに世界を風靡したのであります。インドへも[#「インドへも」は底本では「イドンへも」]その勢力の及んだのは当然でありますが、それが相当永い間ではありましたが、政治的の勢力のみであってシナの文化はインドには殆ど及んでいない。また蒙古は文化として見るべきものは残っていない。それでシナの方から行く文明の勢力は雪山で妨げたということが出来るのであります。
 ところがシナの文化の輸入を防ぐほどの大なる障壁であるならば、インドの文化の輸出を防ぐ障壁であったかと申すとそうではない。この大雪山があるに拘らずインド文明の勢力というものは非常な勢をもってシナ、蒙古は無論のこと、満洲、朝鮮、日本、安南、南洋一切を征服したのであります。ちょうどそのありさまはこう雪山が長く拡がっているとしますと、山の両方から長い手を出し拡げてシナで両手を結び付けたというような形になりますので、左の手は北に出て、或いはヒンドウクシュ山脈、或いはパミールの高原を越えて、西域から中央アジアに入って、そして至るところ大きな文化の洲渚を作って、或いは亀茲国(クッチャ)であるとか、或は于※[#「門<眞」、第3水準1−93−54]国(コータン)であるとかいうような文化国ができ、楼闌、敦煌というような文化の集散地が出来ました。戈壁沙漠を渡り切って瓜州、蘭州を通って、真っ直ぐに東の方に向って来まして五台山まで達しました。右の手は南の方インド洋に出まして錫蘭(師子洲)からハワイ(訶陵)、スマトラ(仏逝)その附近のボルネオ、バリというような島を通って、マレー半島に来りシンガポールからカンボジャに行き、そして扶南、林邑、ことごとくインド文明の勢力で新しい文明を作って、これをマレー・インド文明と名づけてよろしい大きな文明が出来まして、その勢力が伸びて五台山まで結び付くようになった。而して五台山まで結び付けるのが、時には海の中でありますから手が伸びて日本に直接にインドとの交渉が出来るようになったのであります。
 われわれの文化も単にシナから受け取ったばかりでなくインドからも直接に受け取っている事実、これがわれわれの文明で一番重きをなす点であると思う。そういうふうに南の方は船に依り、北の方は商隊に依り、一村一村と押して行って、シナまでは遠路であるが、行商隊がつねに往復しておった。この行商隊ぐらい確かなものはない。一村一村を押して行き、シナに着けばまた必ず一村一村を縫うて元の所に帰って行く。だからこれほど確かなことはありませぬ。ところが船の方でありますとそうはいかないので、船は幾艘も出たとしても必ずその全部が目的地に着くとは限らない、風のために妨げられることもある。またシナの海南島などは当時海賊の大将のおった所で、これに悩まされる、唐時代の海南島の首領は馮国芳といっておりましたが、組織的の海賊で、ペルシャから来る船を、五艘来れば三艘取る、十艘来れば五艘とるというふうにして、全部取ってはあともう来ないから少しは残しておく大変な掠奪を恣にしたのであります。ペルシャ人を生かして住まわしめた村落が東西十里南北二里ばかりというように広いものであった。それからまたこの首領は日本に親類があって日本人の豊田という者は自分の親類であるといっておりますから、これはたぶん紀州田辺の豪族豊田丸が連絡があったものであろうと思います。豊田丸の子は弘法大師の弟子となり高野山の開創に尽力したことがある、そういうふうに海賊にも掠められ、暴風にもやられるし、船の方は案外故障が多い、盛衰があります。けれども永い間には同様勢力を及ぼしまして、終に東洋はことごとくインドの文化の勢力範囲になってしまったというふうであります。一番関係のありますのは南の海の方の道でありますからこれを今少し説明して見ようと思います。これが日本に一番関係があるのであります。

         三

 だいたい六世紀頃にインドから非常な文化種族が移住して来たのでありますが、インドにそういう人種がおったかおらぬか分らない、ただ植民地の出先で非常な勢力を持ってこれが到る所に「ビヂャヤエンパイヤ」と名づける帝国を形作っているのであります。インドの本国ではどこにおったかまだよく分らないのであるが、出た所はコロマンデールの海浜から(マドラスの近傍)から出て来て、そしてセイロンは無論その勢力範囲で全く征服されたのであります。それからジャバに行ったのであるが、そのジャバを「カリンガ」(訶陵)と号しておりますからインドの南海岸から出たものに相違ないのであります。そのカリンガ時代のジャバにはご承知の通りブルバドール(千仏壇)といって、一つの山を全部彫刻して仏像壇にしたのがあります。これは東洋のギリシャといわれております。非常に立派な芸術的遺物のある所であります。而してマホメットの勢力に亡ぼされた後もこの地ばかりは亡ぼされなくして今に残っているのであります。こういう足痕を殘してスマタラに移りましては「サンブッセー」(三仏斉)という帝国を形作ったのであります。「サン」というのはスマタラ語で梵語の室利(神聖)を表する語で、神聖なるビヂャヤということで、ビヂャヤをブゼーと訛ったのであります。「ビヂャヤ」は梵語で「勝利」という語であります。それがスマタラのカレンバン河の河口に大帝国を作っておった、そこでインドに行く者は唐の時代にはここで梵語の文典を習って、そして船で島々を渡りてインドへ行くということが普通であったようで義浄三蔵もそういうふうに書いております。
 それからマレー半島に移って来ますと、マレー半島の土地の名はたいていインドの名前であります。シンガポールは「獅子城」という語でインドの言葉であります、カンボジャ(柬甫塞)というのはインドの地方の名である。唐の時代に一番盛んな所は真臘(チャンドラプーラ)という所で「月の城」というインド語であります。そのときのもう一つの中心は臨邑又は林邑といって、これは唐の時代には占波又は瞻波と称するに至った、チャンパもインドの地名である、これは新しい移住民がインドのチャンパという所から出て来たので、地名を改めたらしい、その前の名も「ルンミー」というのであるが、釋迦如来の生れた所がルンミーと申しますので、それを土語ではルンミーと申したのである。その音訳だと思います、正式の梵語では「ルンビニー」という地方で今にその古趾が残っております。今は「チャム」と云う人種が交趾に残っている、その辺から掘り出す物を見ますると、たいていインドの舎衛城であるとか、迦毘羅城であるとか、インドの名前が付いている。交趾シナあたりでは臨邑が一番北にありまして、チャム族であり、真臘(チャンプ)が南に在って今のカンボジャであります。
 それからもう少し行くとアンコルワット寺である。これは近頃発掘して大変有名な所でありますが、山田長政など徳川時代の人が行って見た人が多い。そのとき柱に書いたものが近頃発掘されて日本人が行っておったということが分ったのであります。アンコルワットを天竺徳兵衛は祇園精舎と[#「祇園精舎と」は底本では「祗園精舎と」]思っている、その土地をインドと思っている。しかしそれをインドと思うのは無理がないのでことごとくインドの名前が付いているからであります。アンコルワット寺院のある所も釋迦如来の太子たりし時の妃の名前が付いて、ヤソダラプラ(耶蘇陀羅城)というのである。すべてインド文明でもって成り立っている。インド人種で植民されている。そしてその結果が「インド・マレー文明」と名を付けてよいだけの一種の文明が出来上ったのであります。而してこの臨邑が一番日本に関係があったのであります。天平時代にここから出て来た人がある、仏哲という人であります。この仏哲という人は臨邑の慈善家であってよほどの学者であります。その人がマレーの沖に出て、今の西貢の沖あたりかも知れませんが、真珠を採集して慈善に宛てるために作業しているうちに船が難破して困っておった。時にインドから来た大きな船が通りかかった、その船はペルシャの船であったろうと思いますが、その船に乗っておったのがインドのバラモンで菩提仙那(ボーデイセーナ)という人であった。シナに来る途中であるというその人に出会ったのであります。
 バラモン僧正は仏哲を見つけて、救い上げて様子を聞くと「俺は臨邑の者であるが真珠を取りに出ていて、舟が難破して困っている」と答えた。これからシナに文殊を尋ねて行くのであるが、同伴せぬか」といった。文殊菩薩がシナにいるという伝説が当時専らインドに弘まっていた。それでインドから文殊菩薩を尋ねて幾人もシナに向って来たのであった、バラモン僧正もその一人である。文殊菩薩の道場が五台山の大華厳寺である。仏哲は喜んで「それじゃ連れて行ってくれ」というので二人は同伴してシナに来て寧波あたりから上陸して五台山に登った。五台山はご承知の通り文殊の道場となっており、清凉山と稱しております。文殊というのは詳しくは文殊室利(マンジュシュリー)といいますが、満洲朝の興りましたのは満洲であるが、これは文殊菩薩の「マンジュ」から出たのである。それで清凉山の清の字を取って清国と名づけたというのであります。
 清凉山は近頃まで仏教の中心とせられておったので、昔はたいへん盛んなものであったろうと思います。両人はそこに登って文殊を訪ねたところが気の利いた僧侶がおって「それは気の毒だ文殊は唯今留守である」どこへ行ったかと尋ねると「日本に行った」という、いま考えるのにこう言った人は日本の留学生の配剤でかく答えたのではないかと思われる。二人は失望して南楊州あたりに戻って来た、この地方で聖武天皇から派遣された留学僧理鏡に会って「五台に文殊を尋ねたが日本に行って留守だ」と話した。それでは日本に行ったらよい、いまちょうど遣唐大使丹遅真人広成の船が帰ろうとしている、それに乗って行くならば日本に楽に着く。それじゃ乗せて行ってもらおうというので二人は遣唐大使の船に乗って日本に来た。
 この船はじつに日本にとっては宝の入船で、帰朝左大臣になり文部卿になり日本の法政、軍政、文政、大学の全般をことごとく整備したともいうべき吉備真備が乗っている、留学の帰路である。それと同時に興福寺から送られた留学生の中で一番偉い人である玄※[#「日+方」、第3水準1−85−13]もいる。奈良の大学頭になるために招かれた音博士の袁晉卿、これはシナの人で招聘されて来た学者、同じく日本に招聘されてシナから渡って日本に戒律を伝えるために先発師として送られた道※[#「王+睿」、第3水準1−88−34]法師。まだ他にもたくさんおりますが、これに林邑の大音楽師仏哲とインドのバラモン僧正がいる。その船が大阪に入って来ますというとこれを迎えに出たのが行基菩薩、四天王寺にあった雅楽寮の楽師を率いて、海口に迎えました。行基菩薩が迎えるというと直ちに自分の尋ねる文殊だと思い込んでしまった、文殊であったかも知れないほどの偉い人であった。行基菩薩が迎えて自分の寺の、奈良の菅原寺に連れて行き、いろいろ歓待した。
 その夜は、非常に嬉しいので、文殊に会い而もその厚遇を受けたので、インド人であるから箸は使わないが、附けられた箸をもって拍板となし拍子をとって喜んで唄い出した。仏哲は熟練した音楽者であった。舞楽は多く仏哲が教えたもので、宮中に今残っている二十八番の舞楽の中で仏哲の手に触れない音楽は殆どないといって差支えない。彼が臨邑から伝えたものは臨邑八楽といって八種ある。楽曲も神話も皆インドのものであります。これが多くいま残っているのであります。大仏の開眼供養の大法会に殊更に作った太平楽というものもいま宮中に残っている。西暦七百年代に作った音楽でいま世界に残っているものはどこにもない、日本だけであります。この大
前へ 次へ
全8ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高楠 順次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング