ロッパの人の考えから申しますると、文明というものは人間が自然を征服することから起こる、人間がだんだんに自然の範囲を征服して行ってその上に文明が起こるのであるが、インド人から考えるとこれは大まちがいで、自然を征服するということは生存競争の範囲を拡げたということだけの話で、地上にあるすべての強き動物をことごとく人間が征服し得ればそれは人間の世界だけは拡がるだろうが、それは決してほんとうの文明ではない、ほんとうの文明は自然を征服するのではなくて自然に同化するということである、そういうのでありますからヨーロッパでもって文明の起原として考えられているものはインド人はことごとく否認する、否認するということは敢て理屈を拵えていうのじゃなくて、自然にそう考えているというより他にないのである、そういう風の調子でまるで考えが違っているのであります。その理想をまずもって了解しなくって、それでインドに臨んでいるというのがヨーロッパのインドに対する態度で、たいていの国ならば国が奪われ財力が奪われ武力もなくなってしまうというようになればもう精神までも失ってしまうのである。経済の力がすっかり奪われてしまったならばたいていの国の民族は亡びたといってよいようになる。
しかしインドは決してそうではない。どんなに国が奪われても財力が奪われても、われわれのあらゆるものを奪い取ってもわれわれの精神を奪い取ることは出来ないであろう。武力で抵抗することができなければ無抵抗の抵抗で行く、抵抗はしないがわれわれは満足しないということは十分に表現しているというふうに、今ガンジーがやっているようなぐあいのやり方をインド人は正当防禦の方法として考えているのであります。そればかりでなく、終にあらゆるものを奪われてインドは貧乏な乞食の国になってしまったが、自分たちは乞食の生活をしておっても決してわれわれの理想の一部分も失うことはしないと信じている。事実インドの乞食の中には立派な哲学者もいるのであります。
私は雪山の中に行きました時に、石窟の中にもぐもぐしている乞食がおったので、私はそれを呼び出しまして毛布を敷いてそこでだんだん話してみると、われわれの知っているような、ヨーロッパ人の研究しているようなウバニシャットの哲学であれ吠※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《ヴェーダ》であれ、こっちのいうだけのことは向うは相当
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