マ]ヨーロッパの人たちがいくら親切をもって臨んでいっても、この理想の根本が違うのでありますから、牛刀を携えてそうして毎日牛を殺してそれを食物としているというふうではどうしてもインドの国を治めることができない、それはあたりまえであります。そういう風変りの国であります。かくも理想が違っていると同時に、解釈の仕方も全く違っているといってもよいので、その一例を申して見ますると、文明の起原といったならば、生存競争が文明の起原であるというのでありますがインドでは全くこれとは違って、生存競争とは何であるか、お互いが競争してその結局は他人を倒すということである、その生存競争の結果は人と人とが争うばかりでなく、国と国とが争うこととなって、ついに今度のように大戦争を惹起して、そうして世界が共倒れになる、それが生存競争の結果である。それが文明といい得るか、ほんとうの文明は生存競争は無意義であるということを知った後に起こるのである。
然らばほんとうの文明とは何か、それは相互扶助の世界である、力の世界ではなく、愛の世界を築き上げるということが人間の目的であり文明の目的である。ほんとうの文明は相互扶助の方面に起こらなければならぬ、生存競争では本当の文明というものは築き上げることが出来ないものであるというようにインド人は考える。また文明は都会生活から興るというのでありますが、論より証據でインドには都会というものはない、われわれの意味での都会というものはヨーロッパの人が来て作っているといってよいのであります。殆ど村落が少し増したというのがインドの都会である。インドでは村落のみであるとすると、インドには到底文明は出来ないことになる。而してまた村落よりもう一層淋しい山林生活がインドの理想となっているのであります。哲学も山林の中より生まれ、宗教は無論のこと、教育も音楽もすべてのことが、われわれが見て文明の要素と考えられるようなものはことごとく山林生活の中から出て来ている、インドの理想は山の中にあるといってもよいので、仙人生活がインド人の理想である。山林生活からインドの文明は出ているのに、ヨーロッパの文明は都会生活から来ている。インド人の考えで、都会生活とは何だ、罪悪の巣窟ではないか、人間は都会生活の結果としていよいよ悪くなって行くというのでありますから、考えがまるで違っているのであります。
またヨー
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