東洋文化史における仏教の地位
高楠順次郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)浮屠家《ふとけ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|吠陀《ベーダ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+它」、第3水準1−14−88]
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         一

 今日ここに講演の機会を与えていただいたことは感謝するところでありますが、果してご満足を得るかどうかを甚だ疑うのであります。書き出しておきました題目はこういう大きな題目でありますが、それの一小部分をお話するようなことに終ってしまうであろうと思うのであります。話の順序といたしましてインドのことが相当に多くを占めることと考えますが、これはどうか予めお許し下さることをお願い申しておきます。
 インドは理想の国であります、理想の国とのみでは分りませんが、理想を製造する国であります。この理想ということを解しなくてインドを統御することはとうてい為し得ないことであります。理想と申しましても非常に風変りの理想でありましてすべての方面で他の国とは全く違った理想を持っているのであります。人類愛――人間がお互いに愛するということはよく人の説くことでありますけれども、インドではこれを押し拡めて動物愛としているのであります。その動物愛をまた押し進めてこれを宗教愛としているのでありますから、動物と親しむことは人間と同じで、ことに牛の如きは神聖の動物とされておりますからではありますけれども、殺すなどのことは無論しない、昔から牡牛は労働に使役しますが、牝牛は決して労働には使わないというふうで、牛の殺されるのを見るとインド人は自分の兄弟が殺される如くに感じ、直ちに自分の生命を棄ててもその牛を救いに行くというふうの人間なのであります。それで毎年マホメット教の祭の時には牛を殺すのであるが、その殺す前に意地悪く、これを今夜殺して犠牲に供するのであるといってインド人の町を牽いて歩いて皆に犠牲になる牛を見せるのであります。
 そうするとインドの青年は徒党を組んでその牛を助けに行く、それで毎年マホメット教とインド教との間に戦争が起こります。そういうふうの国柄であるのでありますからそこ、に[#「そこ、に」はマ
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