たのであります。アンコルワットを天竺徳兵衛は祇園精舎と[#「祇園精舎と」は底本では「祗園精舎と」]思っている、その土地をインドと思っている。しかしそれをインドと思うのは無理がないのでことごとくインドの名前が付いているからであります。アンコルワット寺院のある所も釋迦如来の太子たりし時の妃の名前が付いて、ヤソダラプラ(耶蘇陀羅城)というのである。すべてインド文明でもって成り立っている。インド人種で植民されている。そしてその結果が「インド・マレー文明」と名を付けてよいだけの一種の文明が出来上ったのであります。而してこの臨邑が一番日本に関係があったのであります。天平時代にここから出て来た人がある、仏哲という人であります。この仏哲という人は臨邑の慈善家であってよほどの学者であります。その人がマレーの沖に出て、今の西貢の沖あたりかも知れませんが、真珠を採集して慈善に宛てるために作業しているうちに船が難破して困っておった。時にインドから来た大きな船が通りかかった、その船はペルシャの船であったろうと思いますが、その船に乗っておったのがインドのバラモンで菩提仙那(ボーデイセーナ)という人であった。シナに来る途中であるというその人に出会ったのであります。
バラモン僧正は仏哲を見つけて、救い上げて様子を聞くと「俺は臨邑の者であるが真珠を取りに出ていて、舟が難破して困っている」と答えた。これからシナに文殊を尋ねて行くのであるが、同伴せぬか」といった。文殊菩薩がシナにいるという伝説が当時専らインドに弘まっていた。それでインドから文殊菩薩を尋ねて幾人もシナに向って来たのであった、バラモン僧正もその一人である。文殊菩薩の道場が五台山の大華厳寺である。仏哲は喜んで「それじゃ連れて行ってくれ」というので二人は同伴してシナに来て寧波あたりから上陸して五台山に登った。五台山はご承知の通り文殊の道場となっており、清凉山と稱しております。文殊というのは詳しくは文殊室利(マンジュシュリー)といいますが、満洲朝の興りましたのは満洲であるが、これは文殊菩薩の「マンジュ」から出たのである。それで清凉山の清の字を取って清国と名づけたというのであります。
清凉山は近頃まで仏教の中心とせられておったので、昔はたいへん盛んなものであったろうと思います。両人はそこに登って文殊を訪ねたところが気の利いた僧侶がおって「それは
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