気の毒だ文殊は唯今留守である」どこへ行ったかと尋ねると「日本に行った」という、いま考えるのにこう言った人は日本の留学生の配剤でかく答えたのではないかと思われる。二人は失望して南楊州あたりに戻って来た、この地方で聖武天皇から派遣された留学僧理鏡に会って「五台に文殊を尋ねたが日本に行って留守だ」と話した。それでは日本に行ったらよい、いまちょうど遣唐大使丹遅真人広成の船が帰ろうとしている、それに乗って行くならば日本に楽に着く。それじゃ乗せて行ってもらおうというので二人は遣唐大使の船に乗って日本に来た。
 この船はじつに日本にとっては宝の入船で、帰朝左大臣になり文部卿になり日本の法政、軍政、文政、大学の全般をことごとく整備したともいうべき吉備真備が乗っている、留学の帰路である。それと同時に興福寺から送られた留学生の中で一番偉い人である玄※[#「日+方」、第3水準1−85−13]もいる。奈良の大学頭になるために招かれた音博士の袁晉卿、これはシナの人で招聘されて来た学者、同じく日本に招聘されてシナから渡って日本に戒律を伝えるために先発師として送られた道※[#「王+睿」、第3水準1−88−34]法師。まだ他にもたくさんおりますが、これに林邑の大音楽師仏哲とインドのバラモン僧正がいる。その船が大阪に入って来ますというとこれを迎えに出たのが行基菩薩、四天王寺にあった雅楽寮の楽師を率いて、海口に迎えました。行基菩薩が迎えるというと直ちに自分の尋ねる文殊だと思い込んでしまった、文殊であったかも知れないほどの偉い人であった。行基菩薩が迎えて自分の寺の、奈良の菅原寺に連れて行き、いろいろ歓待した。
 その夜は、非常に嬉しいので、文殊に会い而もその厚遇を受けたので、インド人であるから箸は使わないが、附けられた箸をもって拍板となし拍子をとって喜んで唄い出した。仏哲は熟練した音楽者であった。舞楽は多く仏哲が教えたもので、宮中に今残っている二十八番の舞楽の中で仏哲の手に触れない音楽は殆どないといって差支えない。彼が臨邑から伝えたものは臨邑八楽といって八種ある。楽曲も神話も皆インドのものであります。これが多くいま残っているのであります。大仏の開眼供養の大法会に殊更に作った太平楽というものもいま宮中に残っている。西暦七百年代に作った音楽でいま世界に残っているものはどこにもない、日本だけであります。この大
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