時代のジャバにはご承知の通りブルバドール(千仏壇)といって、一つの山を全部彫刻して仏像壇にしたのがあります。これは東洋のギリシャといわれております。非常に立派な芸術的遺物のある所であります。而してマホメットの勢力に亡ぼされた後もこの地ばかりは亡ぼされなくして今に残っているのであります。こういう足痕を殘してスマタラに移りましては「サンブッセー」(三仏斉)という帝国を形作ったのであります。「サン」というのはスマタラ語で梵語の室利(神聖)を表する語で、神聖なるビヂャヤということで、ビヂャヤをブゼーと訛ったのであります。「ビヂャヤ」は梵語で「勝利」という語であります。それがスマタラのカレンバン河の河口に大帝国を作っておった、そこでインドに行く者は唐の時代にはここで梵語の文典を習って、そして船で島々を渡りてインドへ行くということが普通であったようで義浄三蔵もそういうふうに書いております。
それからマレー半島に移って来ますと、マレー半島の土地の名はたいていインドの名前であります。シンガポールは「獅子城」という語でインドの言葉であります、カンボジャ(柬甫塞)というのはインドの地方の名である。唐の時代に一番盛んな所は真臘(チャンドラプーラ)という所で「月の城」というインド語であります。そのときのもう一つの中心は臨邑又は林邑といって、これは唐の時代には占波又は瞻波と称するに至った、チャンパもインドの地名である、これは新しい移住民がインドのチャンパという所から出て来たので、地名を改めたらしい、その前の名も「ルンミー」というのであるが、釋迦如来の生れた所がルンミーと申しますので、それを土語ではルンミーと申したのである。その音訳だと思います、正式の梵語では「ルンビニー」という地方で今にその古趾が残っております。今は「チャム」と云う人種が交趾に残っている、その辺から掘り出す物を見ますると、たいていインドの舎衛城であるとか、迦毘羅城であるとか、インドの名前が付いている。交趾シナあたりでは臨邑が一番北にありまして、チャム族であり、真臘(チャンプ)が南に在って今のカンボジャであります。
それからもう少し行くとアンコルワット寺である。これは近頃発掘して大変有名な所でありますが、山田長政など徳川時代の人が行って見た人が多い。そのとき柱に書いたものが近頃発掘されて日本人が行っておったということが分っ
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