きをなす点であると思う。そういうふうに南の方は船に依り、北の方は商隊に依り、一村一村と押して行って、シナまでは遠路であるが、行商隊がつねに往復しておった。この行商隊ぐらい確かなものはない。一村一村を押して行き、シナに着けばまた必ず一村一村を縫うて元の所に帰って行く。だからこれほど確かなことはありませぬ。ところが船の方でありますとそうはいかないので、船は幾艘も出たとしても必ずその全部が目的地に着くとは限らない、風のために妨げられることもある。またシナの海南島などは当時海賊の大将のおった所で、これに悩まされる、唐時代の海南島の首領は馮国芳といっておりましたが、組織的の海賊で、ペルシャから来る船を、五艘来れば三艘取る、十艘来れば五艘とるというふうにして、全部取ってはあともう来ないから少しは残しておく大変な掠奪を恣にしたのであります。ペルシャ人を生かして住まわしめた村落が東西十里南北二里ばかりというように広いものであった。それからまたこの首領は日本に親類があって日本人の豊田という者は自分の親類であるといっておりますから、これはたぶん紀州田辺の豪族豊田丸が連絡があったものであろうと思います。豊田丸の子は弘法大師の弟子となり高野山の開創に尽力したことがある、そういうふうに海賊にも掠められ、暴風にもやられるし、船の方は案外故障が多い、盛衰があります。けれども永い間には同様勢力を及ぼしまして、終に東洋はことごとくインドの文化の勢力範囲になってしまったというふうであります。一番関係のありますのは南の海の方の道でありますからこれを今少し説明して見ようと思います。これが日本に一番関係があるのであります。
三
だいたい六世紀頃にインドから非常な文化種族が移住して来たのでありますが、インドにそういう人種がおったかおらぬか分らない、ただ植民地の出先で非常な勢力を持ってこれが到る所に「ビヂャヤエンパイヤ」と名づける帝国を形作っているのであります。インドの本国ではどこにおったかまだよく分らないのであるが、出た所はコロマンデールの海浜から(マドラスの近傍)から出て来て、そしてセイロンは無論その勢力範囲で全く征服されたのであります。それからジャバに行ったのであるが、そのジャバを「カリンガ」(訶陵)と号しておりますからインドの南海岸から出たものに相違ないのであります。そのカリンガ
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