るのかと云ふに就いては、前に陳ぶるが如き效能があるから、と云うてもよろしいが、尚ほ其より外の譯合があるのである。效能があるからと云ふのは、既に信じたる後の話である。まだ信ぜざる前には、效能があるかなきかは、分らぬことである。勿論、人の效能があると云ふ言葉を聞いて、信ぜられぬ譯でもないが、人の言葉を聞いただけでは、さうでもあらう位のことが多い。眞に效能があるか無いかと云ふことは、自分に實驗したる上の話である。私が如來を信ずるのは、其效能によりて信ずるのみではない、其外に大なる根據があることである。それはどうかと云ふに、私が如來を信ずるのは、私の智慧の窮極であるのである。人生の事に眞面目でなかりし間は、措いて云はず、少しく眞面目になり來りてからは、どうも人生の意義に就いて研究せずには居られないことになり、其研究が遂に人生の意義は不可解であると云ふ所に到達して茲に如來を信ずると云ふことを惹起したのであります。信念を得るには、強ち此の如き研究を要するわけでないからして、私が此の如き順序を經たのは、偶然のことではないかと云ふ樣な疑もありさうであるが、私の信念は、さうではなく、此順序を經るのが必要
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