の中へ、右手をうでのつけねまでさし入れている。うでをすっかり土管の中につっこんでいるので、しぜん頭が横むけに土手の草におしつけられ、なにか、土手の中のかすかな物音に、耳をすまして聞いているといった風情《ふぜい》である。
じき近くにあるあひる小屋にいる二わのあひるが、人のけはいでひもじさを思い出したのか、があがあとやかましく鳴きだした。
春吉君は、どろみぞの中へとびこんでいく気にはなれなかったし、石太郎が土管のあなを受け持っているからには、よけいな手だしはしないほうがいいので、ほかのものといっしょに見ていた。
「ええか、ええかあ、にがすなよおっ」
という藤井先生の声が、地べたをはってくる。石太郎はだまって、依然《いぜん》、土手の声に聞き入っていたが、やがて、土手についていたもう一方の手が、ぐっと草をつかんだかと思うと、土管の中から、右手を徐々《じょじょ》にぬきはじめた。
首ねっこを力いっぱいにぎりしめられていた大きないたち[#「いたち」に傍点]は、窒息《ちっそく》のためもうほとんど死んだようになっていて、土管の外へ出ると、だらりとえりまきを見るようにぶらさがったが、すこし石太郎が手をゆるめたのか、なにかかき落とそうとするように、四|肢《し》をもがいた。するとそのとき、どろみぞからあがっていた石太郎は、ちくしょうと口ばしって、目にもとまらぬ敏捷《びんしょう》さで、いたちを地べたへたたきつけた。
ぼたっと重い音がして、古いたち[#「いたち」に傍点]は、のびてしまった。春吉君は、いつも水藻《みずも》のような石太郎が、こんなにはっきり、ちくしょうっという日本語を使ったこともふしぎだったし、こんなにすばしこい動作《どうさ》ができるということも不可解な気がした。
それはともかく、そのとき春吉君は、藤井先生が、このかたいなかの、学問のできない、下劣《げれつ》で野卑《やひ》な生徒たちに、しごく適した先生になられたことを感じたのである。といって、べつだん失望したわけでもない。けっきょく、親しみをおぼえて、それがよかったのだ。
藤井先生は、石太郎ととらえたあのいたちを、ヘびつかみの甚太郎《じんたろう》に、二円三十銭で売った。その金で、小使いのおじさんと一ぱいやったという話を、二、三日して春吉君は、みんなからただおもしろく聞いた。先生はまだ独身で、小使室のとなりの宿直室で寝起《ねお》きしていられたのである。
教室でも先生が変化したことは、同じことだった。坂市君や、源五兵衛《げんごべえ》君や、照次郎《てるじろう》君などが、知らない文字をうのみにして読本《とくほん》を読んでいっても、最初のころのように、え、え、と、優美にとがめるようなことはされなくなった。年よりの、ぜんそくもちの石黒先生と同じように、知らんふりしてズボンのポケットに両手をつっこんで、つくえのあいだを散歩していられるのであった。
こういうぐあいに、すべての点で藤井先生はいなかの気ふうにならされ、のみならず、いなかふうをマスターするようにさえなったのだが、石太郎の、授業中にときどき音もなくはなつ屁《へ》にだけは、あくまで妥協できなかったのである。
情景はおおよそ、次第《しだい》がきまっていた。まず最初にそれを発見するのは、石太郎の前にいる学科のきらいな、さわぐことのすきな、顔ががま[#「がま」に傍点]ににている古手屋の遠助《とおすけ》である。かれは、先生のまじめなお話などいささかもわからないので、どんなに、クラス全体が一生けんめいに先生の話に傾聴《けいちょう》しているときでも「あっ、くさっ、あっ、あっ」といいだす。
すると、教室のその一|角《かく》から、「あっ、くさっ、あっ、くさっ」という声が、波紋《はもん》のようにひろがり、ざわめきだす。すると藤井先生は、あわててハンケチを胸のポケットから出す。(あまり倉卒《そうそつ》にとり出すので、頭髪《とうはつ》をすく小さいくしが、まつわってとび出したこともある)ハンケチで鼻をしっかりとおさえる。鼻声で、まどをあけろ、まどを、そっちも、こっちもと、下知《げち》なさる。
それから南のまどぎわへ歩いていって、外の空気をすうために、ややハンケチをおはなしになる。藤井先生のいつもきまった動作がおもしろいので、生徒らは、男子も女子も、ますます、くさいとさわぐ。すると、古手屋の遠助が、きょうは大根屁《だいこんぺ》だとか、きょうはいも屁だとか、きょうは、えんどう豆屁だとか、正確にかぎわけて、手がら顔にいうのである。
みんなは、遠助の鑑識眼《かんしきがん》を信用しているので、かれのいったとおりのことばを、また伝えはじめる。
「あ、大根屁だ。大根くせえ」
というふうに。ようやく喧騒《けんそう》が大きくなったころ、先生は、
「だれだっ」
と一かつさ
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