屁
新美南吉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)石太郎《いしたろう》が
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)屁|弟子《でし》である
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)すいこ[#「すいこ」に傍点]
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石太郎《いしたろう》が屁《へ》の名人であるのは、浄光院《じょうこういん》の是信《ぜしん》さんに教えてもらうからだと、みんながいっていた。春吉《はるきち》君は、そうかもしれないと思った。石太郎の家は、浄光院のすぐ西にあったからである。
なにしろ是信さんは、おしもおされもせぬ屁《へ》こきである。いろいろな話が、是信さんの屁について、おとなたちや子どもたちのあいだに伝えられている。是信さんは、屁で引導《いんどう》をわたすという。まさかそんなことはあるまいが、すいこ[#「すいこ」に傍点]屁(音なしの屁)ぐらいは、お経《きょう》の最中にするかもしれない。
また、ある家の法会《ほうえ》で鐘《かね》をたたくかわりに、屁をひってお経をあげたという。これも、おとながおもしろ半分につくったうそらしい。だが、これだけはたしかだ。是信さんは、正午の梵鐘《ぼんしょう》をつきながら、鐘の音の数だけ、屁をぶっぱなすことができるということである。春吉君は、じぶんでその場面を見たからだ。
石太郎が是信さんの屁|弟子《でし》であるといううわさは、春吉君に、浄光院の書院まどの下の日だまりに、なかよく日なたぼっこしている是信さんと、石太郎のすがたを想像させた。茶色のはん点がいっぱいある、赤みがかったつやのよい頭を日に光らせ、洗いふるしたねずみ色の着物の背《せ》をまるくしている、年よりの是信さん。顔のわりあいに耳がばかに大きい、まるでふたつのうちわを頭の両側につけているように見える、きたない着物の、手足があかじみた石太郎。
きっと石太郎は、学校がひけると、毎日是信さんとそういう情景をくり返しながら、屁《へ》の修業《しゅぎょう》をつんでいるのだろう。まったくかれは屁の名人だ。
石太郎は、いつでも思いのままに、どんな種類の屁でもはなてるらしい。みんなが、大きいのをひとつたのむと、ちょっと胸算用《むなざんよう》するようなまじめな顔つきをしていて、ほがらかに大きい屁をひる。小さいのをたのめば、小さいのを連発する。にわとりがときをつくるような音を出すこともできる。こんなのは、さすがに石太郎にもむずかしいとみえ、しんちょうなおももちで、からだ全体をうかせたりしずめたり――つまり、調子をとりながら出すのである。そいつがうまくできると、みんなで拍手かっさいしてやる。
しかし石太郎は、そんなときでも、屁をくらったような顔をしている。その他、とうふ屋、くまんばち、かにのあわ、こごと、汽車など、石太郎の屁にみんながつけた名まえは、十の指にあまるくらいだ。
石太郎が屁の名人であるゆえに、みんなはかれをけいべつしていた。下級生でさえも、あいつ屁えこき虫と、公然指さしてわらった。それを聞いても、石太郎の同級生たちは、同級生としての義憤《ぎふん》を感じるようなことはなかった。石太郎のことで義憤を感じるなんか、おかしいことだったのである。
石太郎の家は、小さくてみすぼらしい。一歩中にはいると、一種異様なにおいが鼻をつき、ヘど[#「へど」に傍点]が出そうになる。そして、暗いので家の中はよく見えない。石太郎は、病気でねたっきりのじいさんとふたりだけで、その家に住んでいる。
どこかへかせぎに出ているおとっつあんが、ときどき帰ってくる。おっかあは、早く死んでしまって、いない。石太郎は、ポンツク(川漁《かわりょう》)にばかりいく。とってきたふなや、どじょうを、じいさんにたべさせる。また、買いにいけば、どじょうやうなぎを売ってくれるということである。
石太郎の着物は、いつ洗ったとも知れず、あかでまっ黒になっている。その着物に、家の中のあの貧乏《びんぼう》のにおいや、ポンツクのなまぐさいにおいをつけて、学校へやってくる。そのうえ、注文されなくてもかれは、ときおり放屁《ほうひ》する。
みんなは、石太郎のことを、屁《へ》えこき虫としてとりあつかっている。石太郎のほうでも、そのほうがむしろ気楽なのか、一どもふんがいしたことはない。生徒ばかりでなく、たいていの先生まで、石太郎を虫にしているので、石太郎は、だんだんじぶんでも虫になっていった。かれは、教室で、いちばんうしろに、ひとりでふたり分のつくえをあたえられていたが、授業中にあまり授業に注意しなかった。たいていは、ナイフで鉛筆に細工《さいく》していた。またかれは、まじめになるときがなくなってしまった。屁の注文をうける場合のほかは。かれは、いつもぐにゃぐにゃし、えへ
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