音次郎君が徳一君のランドセルを持ち、久助君は、兵太郎君の足からぬげて落ちたきたないげたを持った。どさくさまぎれで地に落ちて砂にまみれた食いかけの百匁《ひゃくめ》がきを、久助君はポーンと川の中へけとばした。そして三人は出発した。

       二

 つぎの朝久助君は、山羊《やぎ》にえさをやるため、小屋の前へいって、ぬれた草を手でつかんだとき、きのうの川のできごとを思い出した。と同時に、兵太郎君はどうなったろうという心配が、重く心にのしかかってきた。
 まもなくまた忘れてしまった。だが心配の重さだけは忘れているまも心にのこっていて、なんとなく不愉快《ふゆかい》であった。
 七時半になると、いつものように家を出た。学校のうらてへむかって一直線に走っている細い道に出たとき、五十メートルほど前を、薬屋の音次郎君が、なにかつまらないことでも考えているように、拍手をしては右手を外の方へうっちゃりながら歩いていくのを見た。
 久助君は、ふたりで心配をわかちあい、ひとりで苦しんでいることからまぬがれようと思って、走っていった。けれど音次郎君は、きのうのことなどまるで気にもかけていないようすであった。じぶんはとりこし苦労をしていたのかと久助君は思って、ほっとした。なんでもなかったんだ。
 音次郎君は久助君といっしょになっても、あいかわらず拍手をつづけながら、じぶんひとりのつまらない考えを追って歩いていた。まもなくうしろから、ゴツゴツとランドセルの音をさせて、だれか走ってきた。森医院の徳一君である。このあいだ新調したばかりのぼうしのひさしを光らせながら、「おはよう」と、元気よく近づいてきた。そして、こうきいた。
「きょう、算術の宿題なかったかね」
 徳一君もやはり、きのうのことなんか気にしていないのである。事実、なんでもないのだろう。この世には、そうかんたんに、できごと[#「できごと」に傍点]はおこらないのだ。
 三人は教室にはいった。ほかのものはもう、たいていきている。教室の中にも十人ほどいる。そのなかには兵太郎君がいないことを、久助君はひと目でたしかめた。
 兵太郎君の席は、徳一君のすぐとなりにあった。用具がそこにはいっているかと思ってそちらを見たとき、久助君は、徳一君もやはりそういう目つきで見ているのを発見した。のみならず、音次郎君もやはり、兵太郎君の席を見ていた。
 みんな、心のおくで、同じ心配をもっているのだと、久助君はわかった。
 徳一君が、ちょっと兵太郎君のつくえのふたをあけた。久助君は心臓《しんぞう》がどきつくのをおぼえた。中には、なにもはいっていなかった。
 その日から、兵太郎君は学校へこなくなってしまったのである。
 五日、七日、十日と、日はたっていったが、兵太郎君は学校へすがたを見せなかった。しかしだれひとり、兵太郎君のことをくちにするものがない。久助君は、それがふしぎだった。五年間もともに生活したものが、ふいにぬけていっても、あとのものたちは、なにごともなかったように平気でいるのである。だがこれがあたりまえのようにも思われた。
 久助君は、徳一君と音次郎君だけはじぶんと同じように、消えてしまった兵太郎君のことで心をいためていることはわかっていた。それだのに、この三人は、ひとことも、兵太郎君についていわないのであった。そればかりでなく、みょうにおたがいの目をおそれて、おたがいにさけあうようになった。
 さまざまに、久助君は思いまどった。たとえば、先生にいっさいのことをうちあけて、あやまってしまったらどうだろう。心がかるくなるのではあるまいか。しかし、あの川のことがもとで、じっさい兵太郎君は病気になったのなら、兵太郎君がそれをだまっているはずはない。おとうさんかおかあさんに、話したにそういあるまい。そうすれば、おとうさん、あるいはおかあさんの口から、先生のところへ情報はとどいているはずである。ひょっとすると、先生はもうなにもかもごぞんじなのかもしれない。それを、わざと知らんふりをしておられるのは、久助君たちが自首して出るのを待っておられるのではあるまいか。そんなふうに思って、知らず知らず首をすくめながら、先生の顔をうかがうこともあった。
 あるときは、自首したい衝動にひどくかられた。それはちょうど国史の時間であったが、いつもおもしろく聞ける国史の話が、心の中の煩悶《はんもん》のために、ちぎれちぎれになって、ちっともおもしろくないので、こんなになさけないめにあうのも、じぶんがひみつをもっているからだ、いってしまいさえすれば心は解放されるのだ、と思うと、とつじょ立ちあがって、
「先生、ぼくたち三人で、兵太郎君をだまして、病気にしたのです!」
と、さけびたくなった。しかし、平常とすこしも変わらないあたりの空気が、なぜかその衝動
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