をおさえさせた。ま昼間、心もたしかなのに、久助君は、じぶんのすぐかたわらから、もうひとりの久助君が、すくっと立ちあがって、
「先生!」
といいはじめる幻影《げんえい》を、三ども四ども、はっきり見たのだった。耳がじいんとなって、両手にあせをにぎっていた。
 二カ月、三カ月とすぎた。まだ兵太郎君は、学校へすがたを見せない。そのあいだ、久助君は兵太郎君について、ほとんどなにも聞かなかった。ただ一ど、こういうことがあった。ある朝、久助君が教室にはいってくると、ちょうどいきちがいに、ふたりの級友が、つくえをひとつ、ろうかへさげ出していった。
「だれのだい」
と、なにげなくきくと、ひとりが、
「兵タンのだよ」
とこたえた。それだけであった。それからこういうことがもう一どあった。薬屋の音次郎君がある午後、うら門の外で久助君を待っていて、いまから兵タンのところへ薬を持っていくから、いっしょにいこうとさそった。久助君はびっくりしたが、同意して出かけた。薬は、アスピリンという、よく熱をとる薬だそうである。兵太郎君はかぜをひいたのがもとだから、このアスピリンで熱をとれば、すぐなおってしまうと、音次郎君は、医者のように自信をもっていった。ほんとうにそうだと、知らないくせに久助君も思った。それにしても、それほどよくきく薬なら、なぜもっと早く持っていってやらなかったのだろう。やがて、いつもは通らない村はずれの常念寺《じょうねんじ》の前にきた。常念寺の土塀《どべい》の西南のすみに、小さな家が土塀によりかかるように、(事実、すこしかたむいている)建っている。それが兵太郎君の家である。ふたりは、土塀にそって歩いていった。兵太郎君の家の前にきた。入口があいていて、中は暗い。人がいるのかいないのか、コトリとも音がしない。日のあたるしきいの上で、ねこが前あしをなめているばかりだ。ふたりの足はとまらなかった。むしろ、足ははやくなった。そして、通りすぎてしまい、それきりだったのである。
 久助君は、ほかの友だちとわらったり話したりするのが、きらいになった。そして、ひとりでぼんやりしていることが多かった。それから、ひどく忘れっぽくなった。なにかしかけて忘れてしまうようなことが多かった。いま手に持っていた本が、ふと気づくと、もう手になかった。どこにおいたか、いくら頭をしぼっても思い出せないというふうであった。お使いにいって、買うものを忘れてしまい、あてずっぽうに買って帰って、まるでラジオで聞く落語みたいだとわらわれたこともあった。
 もとから久助君は、どうかすると見なれた風景や人びとのすがたが、ひどく殺風景《さっぷうけい》にあじけなく見え、そういうもののなかにあって、じぶんのたましいが、ちょうど、いばらの中につっこんだ手のように、いためられるのを感じることがあったが、このごろはいっそうそれが多く、いっそうひどくなった。こんなつまらない、いやなところに、なぜ人間は生まれて、生きなければならぬのかと思って、ぼんやり庭の外の道をながめていることがあった。また、つめたい水にわずか五分ばかりはいっていただけで、病気にかかり死なねばならぬ(久助君には、兵太郎君が死ぬとしか思えなかった)人間というものが、いっそうみじめな、つまらないものに思えるのであった。
 三学期のおわりごろ、ついに兵太郎君が死んだということを、久助君は耳にした。べんとうのあと、久助君は教だんのわきで日なたぼっこをしていた。すると、むこうのすみで話しあっていた一団のなかから、
「兵タンが死んだげなぞ」
と、ひとりがいった。
「ほうけ」
と、ほかのものがいった。べつだん、おどろくふうも見えなかった。久助君もおどろかなかった。久助君の心は、おどろくには、くたびれすぎていたのだ。
「うらのわら小屋で死んだまねをしとったら、ほんとに死んじゃったげな」
と、はじめのひとりがいうと、ほかのものたちは明るくわらって、兵太郎君の死んだまねや腹痛《はらいた》のまねのうまかったことを、ひとしきり話しあった。
 久助君は、もう聞いていなかった。ああ、とうとうそうなってしまったのかと思った。そっとかた手を、ゆかの上の日なたにはわせてみると、じぶんの手はかさかさして、くたびれていて、悲しげに、みにくく見えた。

       三

 日ぐれだった。
 久助君のからだのなかに、ばくぜんとした悲しみがただよっていた。
 昼のなごりの光と、夜の先ぶれのやみとが、地上でうまくとけあわないような、みょうにちぐはぐな感じの、ひとときであった。
 久助君のたましいは、長い悲しみの連鎖《れんさ》のつづきを、くたびれはてながら旅人《たびびと》のようにたどっていた。
 六月の日ぐれの、びみょうな、そして豊富な物音が戸外にみちていた。それでいてしずかだった。
 久助
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