君は目をひらいて、柱にもたれていた。なにかよいことがあるような気がした。いやいや、まだ悲しみはつづくのだという気もした。
すると遠いざわめきのなかに、ひと声、子|山羊《やぎ》の鳴き声がまじったのを聞きとめた。久助君はしまったと思った。生まれてからまだ二十日《はつか》ばかりの子山羊を、昼間|川上《かわかみ》へつれていって、こん虫《ちゅう》を追っかけているうち、つい忘れてきてしまったのだ。しまった。それと同時に、子山羊はひとりで帰ってきたのだ[#「子山羊はひとりで帰ってきたのだ」に傍点]と確信をもって思った。
久助君は、山羊小屋の横へかけだしていった。川上の方を見た。
子山羊は、むこうからやってくる。
久助君には、ほかのものはなにも目にはいらなかった。子山羊の白いかれんなすがただけが、――子山羊と自分の地点をつなぐ距離だけが見えた。
子山羊は、立ちどまっては川っぷちの草をすこし食《は》み、またすこし走っては立ちどまり、無心に遊びながらやってくる。
久助君は、むかえにいこうとは思わなかった。もうたしかにここまでくるのだ。
子山羊は、電車道もこえてきたのだ。電車にもひかれずに。あの土手《どて》のこわれたところも、うまくわたったのだ。よく川に落ちもせずに。
久助君は胸があつくなり、なみだが目にあふれ、ぽとぽとと落ちた。
子山羊はひとりで帰ってきたのだ[#「子山羊はひとりで帰ってきたのだ」に傍点]。
久助君の胸に、ことしになってからはじめての、春がやってきたような気がした。
四
久助君はもう、兵太郎君が死んではいない、きっと帰ってくる、という確信をもっていたので、あまりおどろかなかった。
教室にはいると、そこに、――いつも兵太郎君のいたところに、洋服にきかえた兵太郎君が、白くなった顔でにこにこしながらこしかけていた。
久助君は、じぶんの席へついてランドセルをおろすと、目を大きくひらいたまま、兵太郎君を見てつっ立っていた。そうするとしぜんに顔がくずれて、兵太郎君といっしょにわらいだした。
兵太郎君は、海峡《かいきょう》のむこうの親せきの家にもらわれていったのだが、どうしてもそこがいやで、帰ってきたのだそうである。それだけ久助君はひとから聞いた。川のことがもとで、病気をしたのかしなかったのかは、わからなかった。だが、もうそんなことはどうでもよかった。兵太郎君は帰ってきたのだ。
休けい時間に、兵太郎君が運動場へはだしでとび出していくのをまどから見たとき、久助君は、しみじみこの世はなつかしいと思った。そして、めったなことでは死なない人間の生命というものが、ほんとうにとうとく、美しく思われた。
そこへもうひとつ思い出すことがあった。それは、きょ年の夏、兵太郎君と川あそびにいって、川からあがったばかりの、ぴかぴか光るおたがいのはだかんぼうを、おいしげった夏草の上でぶつけあい、くるいあって、たがいに際限《さいげん》もなくわらいころげたことだった。
底本:「牛をつないだ椿の木」角川文庫、角川書店
1968(昭和43)年2月20日初版発行
1974(昭和49)年1月30日12版発行
入力:もりみつじゅんじ
校正:ゆうこ
2000年1月27日公開
2006年1月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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