奏でる胡弓を、松次郎のたたく鼓を、その合奏を愛している人々が全部なくなったわけではないのだ。尠《すくな》くとも(と木之助はあの金持の味噌屋の主人のことを思った)、あの人は胡弓の音がどんなものかを知っている。
翌朝木之助は早朝に起き、使いなれた胡弓を持って家を出た。道や枯草、藁積《わらぐま》などには白く霜《しも》が降《お》り、金色にさしてくる太陽の光が、よい一日を約束していたが、二十年も正月といえば欠かさず一緒に出かけた松次郎が、もうついてはいないことは一抹《いちまつ》の寂《さび》しさを木之助の心に曳《ひ》いた。
「木之さん、今年《ことし》も出かけるかな」。木之助が家の前の坂道をのぼって、広い県道に出たとき、村人の一人がそういって擦《す》れちがった。
「ああ、ちょっと行って来ますだ」と木之助が答えると、
「由《よし》さあも、熊《くま》さあも、金《きん》さあも、鹿《しか》あんも今年はもう行かねえそうだ。力《りき》やんと加平《かへい》が、行こか行くまいかと大分迷っとったがとにかくも一ぺん行って見ようといっとったよ」
そういって村人は遠ざかっていった。
五
村を出はずれて峠道《とうげみち》にさしかかるといつものように背後からがらがらと音がして町へ通ってゆく馬車が駈《かけ》て来た。木之助は道のはたへ寄って馬車をやりすごそうと思った。馬車が前を通るとき馭者台《ぎょしゃだい》の上を見ると、木之助は、おやと意外に感じた。そこに乗っているのは長年|見馴《みな》れたあの金聾《かなつんぼ》の爺《じい》さんではなく、頭を時分《ときわ》けにした若い男であった。金聾の爺さんの息子《むすこ》に違いない。顔つき[#「つき」に傍点]がそっくり爺さんに似ていた。それにしてもあの爺さんはどうしたんだろう、あまり年とったので隠居したのだろうか。あるいは死んだのかも知れない。いずれにしても木之助は時の移りをしみじみ感じなければならなかった。
しかしその年はまだ全然実入りがなかったのではなかった。金持ちの味噌屋はたのしみに最後に残しておいて、他《た》の家々を午前中|廻《まわ》った。お午《ひる》までに――木之助は何軒の家がお礼をくれたかはっきり覚えていた――十軒だった。そしてお礼のお銭《あし》は合計で十三銭だった。最後に味噌屋にゆくと、あの頃からはずっと年とって、今はいい老人になった御
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