」に傍点]をもらしながら、すこししせいをくずすが、またすぐ、熱心に先生の方をながめるのであった。それだけのことで、久助君には、太郎左衛門が、じぶんたちのように道のほこりや草の中でそだってきたものではないことがわかり、太郎左衛門をすきにもなれば、なにかもの悲しい思いでもあったのである。
 あるとき久助君は、いつものようにじぶんの席から、その美しい少年をながめていた。それは、ひとりの美しい少年であった。この美しい少年は、いったいなんという名だろうと、久助君は思った。そしてすぐ、なァんだ、太郎左衛門じゃないかと、口の中でいった。
 ふいと久助君は、まえに、江川太郎左衛門《えがわたろうざえもん》というえらい人物の伝記を、ある雑誌で読んだことを思い出した。よくはおぼえていないが、江戸時代の砲術家《ほうじゅつか》で、伊豆《いず》の韮山《にらやま》に反射炉《はんしゃろ》というものをきずいて、そこで、そのころとしてはめずらしい大砲を鋳造《ちゅうぞう》したという人である。そして、れんがを積みあげてつくったらしい反射炉の図と、びっくりした人のように目玉の大きい、ちょんまげすがたの江川太郎左衛門の肖像《しょうぞう》が、久助君の頭にうかんだ。
 この少年太郎左衛門は、あの江戸時代の砲術家の太郎左衛門と同じ名なのである。同じ名ならば、ふたりは同じ人間ではあるまいか。
 しかし、そんなはずはない。第一、江戸時代におとなだった太郎左衛門が、現在、子どもになっているというわけがないのである。それでは、事の順序がぎゃくというものだ。
 久助君は、じぶんのばかげた考えをうちけした。にもかかわらず、久助君には、砲術家太郎左衛門と、この少年太郎左衛門が同一人物のように思えたのである。江戸時代におとなだった人間が、だんだんわかくなって、いまは少年になっているのだ――さまざまな人間のなかには、そういうような特別な生きかたをするのが、ひとりやふたりは、いるかもしれない。目がぎょろりと大きいところは、この太郎左衛門もあの太郎左衛門もいっしょじゃないか。久助君は、そんなことをくちに出していえば、ひとが一笑《いっしょう》にふしてしまうことは知っていたので、ただじぶんひとりで空想にふけるだけであった。
 その日、学校から帰るとき、久助君は、太郎左衛門の三メートルばかりうしろを歩いていった。むろん久助君は、太郎左衛門のあ
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