友《しんゆう》に高橋順益《たかはしじゅんえき》という医師《いし》あり。至《いたっ》て莫逆《ばくげき》にして管鮑《かんぽう》啻《ただ》ならず。いつも二人|相《あい》伴《ともな》いて予が家に来り、互《たがい》に相《あい》調謔《ちょうぎゃく》して旁人《ぼうじん》を笑わしめたり。一日、予が妻、ワーフルという菓子《かし》を焼《や》き居たりしを先生見て、これは至極《しごく》面白《おもしろ》し、予もこの器械《きかい》を借用《しゃくよう》して一ツやって見《み》たしとのことにつき、翌日これを老僕《ろうぼく》に持《も》たせ遣《つかわ》しければ、先生|大《おおい》に喜び、やがて自《みず》から麺粉《めんふん》[#「麺粉」は底本では「麺紛」]に鶏卵《けいらん》を合せ焼《や》き居られしが、高橋も来りてこれを見て居けるうち、鶏卵の加減《かげん》少し度《ど》に過《す》ぎたる故《ゆえ》、ぱちぱちと刎出《はねだ》し、先生の衣服《いふく》は勿論《もちろん》、余滴《よてき》、高橋にも及びしかば、高橋|例《れい》の悪口《わるくち》を言出せば、先生、黙《だま》って見て居《お》れ、その代《かわ》りに我れ鰻飯《うなぎめし》を汝《なんじ》に奢《おご》らんと。高橋その馳走《ちそう》をうけ、これにて少し腹《はら》が癒《い》えたとて去りたりと。この高橋は洋学《ようがく》にも精通《せいつう》し、後来《こうらい》有望《ゆうぼう》の人なりけるに、不幸《ふこう》にして世を早《はや》うせり。先生深く※[#「りっしんべん+宛」、第3水準1−84−51]惜《えんせき》し、厚く後事《こうじ》を恤《めぐ》まれたりという。
慶応義塾《けいおうぎじゅく》はこの頃《ころ》、弟子いよいよ進《すす》み、その数すでに数百に達し、また旧日の比《ひ》にあらず。或夜《あるよ》、神明社《しんめいしゃ》の辺《ほとり》より失火し、予が門前《もんぜん》まで延焼《えんしょう》せり。先生の居《きょ》、同じく戒心《かいしん》あるにもかかわらず、数十の生徒《せいと》を伴《ともな》い跣足《せんそく》率先《そっせん》して池水《いけみず》を汲《くみ》ては門前に運び出し、泥塗満身《でいとまんしん》消防《しょうぼう》に尽力《じんりょく》せらるること一霎《いっしょう》時間《じかん》、依《よっ》て辛《かろ》うじてその災《さい》を免《まぬか》れたり。その後|暴人《ぼうじん》江戸|市街《しがい》に横行《おうこう》し、良家《りょうか》に闖入《ちんにゅう》して金銭を掠《かすむ》るの噂《うわさ》ありし時も、先生|頗《すこぶ》る予が家を憂慮《ゆうりょ》せられ、特に塾員《じゅくいん》に命《めい》じ、来《きたっ》て予が家に宿泊《しゅくはく》せしめ、昼夜《ちゅうや》警護《けいご》せられたることあり。その厚意《こうい》今なお寸時《すんじ》も忘《わす》るること能《あた》わず。
江戸|開城《かいじょう》の後、予は骸骨《がいこつ》を乞《こ》い、しばらく先生と袂《たもと》を分《わか》ち、跡《あと》を武州《ぶしゅう》府中《ふちゅう》の辺に屏《さ》け居るに、先生は間断《かんだん》なく慰問《いもん》せられたり。
明治四年八月、予|再《ふたた》び家を東京に移《うつ》すに及び、先生|直《ただ》ちに駕《が》を抂《まげ》られ、いわるるよう、鄙意《ひい》、君が何事か不慮《ふりょ》の災《さい》あらん時には、一臂《いっぴ》の力を出し扶助《ふじょ》せんと思い居《お》りしが、かくてはその災害《さいがい》を待つに同《おなじ》くして本意《ほんい》に非ざれば、今より毎年|寸志《すんし》までの菲品《ひひん》を呈《てい》すべしとて、その後は盆《ぼん》と暮《くれ》に衣物《いぶつ》金幣《きんへい》、或は予が特に嗜好《しこう》するところの数種を添《そ》えて※[#「貝+兄」、97−15]《おく》られたり。またその時予が妻《さい》に向《むかっ》て、今日福沢諭吉は大丸《だいまる》ほどの身代《しんだい》に成りたれば、いつにても予が宅に来て数日|逗留《とうりゅう》し、意を慰《なぐさ》め給うべしとなり。
明治十四年九月、予は従来|筆記《ひっき》し置《おき》たる小冊を刊行《かんこう》し、これを菊窓偶筆《きくそうぐうひつ》と名づけ世に公《おおやけ》にせんと欲し先生に示したれば、先生これを社員《しゃいん》それ等の事に通暁《つうぎょう》せる者に命じ、印刷《いんさつ》出板《しゅっぱん》の手続きより一切《いっさい》費用《ひよう》の事まで引受《ひきうけ》られ、日ならずして予が望《のぞみ》のごとく美《び》なる冊子《さっし》数百部を調製《ちょうせい》せしめて予に贈《おく》られたり。
同二十四年十月、予また幕末《ばくまつ》の編年史《へんねんし》を作り、これを三十年史と名《なづ》け刊行《かんこう》して世に問《と》わんとせし時、誰人《たれ
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