て讃称《さんしょう》し、天下の人の熟知《じゅくち》するところ、予が喋々《ちょうちょう》を要せず。予は唯《ただ》一箇人《いっこじん》として四十余年、先生との交際《こうさい》及び先生より受けたる親愛《しんあい》恩情《おんじょう》の一斑《いっぱん》を記《しる》し、いささか老後《ろうご》の思《おもい》を慰《なぐさ》め、またこれを子孫に示《しめ》さんとするのみ。
予の初めて先生を知《し》りしは安政《あんせい》六年、月日は忘《わす》れたり。先生が大阪より江戸に出で、鉄炮洲《てっぽうず》の中津藩邸《なかつはんてい》に住《すま》われし始めの事にして、先生は廿五歳、予は廿九歳の時なり。先生|咸臨丸《かんりんまる》米行《べいこう》の挙《きょ》ありと聞て、予が親戚《しんせき》医官《いかん》桂川氏《かつらがわし》を介《かい》してその随行《ずいこう》たらんことを求められしに、予はこれ幸《さいわい》の事なりと思い、直《ただ》ちにこれを肯《がえ》んじ、一|見《けん》旧《きゅう》のごとし。
翌年正月十九日の夕、共《とも》に咸臨丸《かんりんまる》に乗組《のりくみ》て浦賀湾《うらがわん》を出帆《しゅっぱん》したり。先生は予がこの行《こう》に伴《ともな》いしを深《ふか》く感謝《かんしゃ》せらるるといえども、予の先生に負《お》うところ、かえって大《だい》にして大《おおい》に謝《しゃ》せざるべからざるものあり。それを如何《いかん》というに、この時|洋中《ようちゅう》風浪《ふうろう》暴《あら》くして、予が外《ほか》に伴いたる従者《じゅうしゃ》は皆|昏暈《こんうん》疲憊《ひはい》して、一人も起《た》つこと能《あた》わず。先生は毫《ごう》も平日と異《こと》なることなく、予が飲食《いんしょく》起臥《きが》の末に至るまで、力を尽《つく》しこれを扶《たす》け、また彼地《かのち》に上陸《じょうりく》したる後も、通弁《つうべん》その他、先生に依頼《いらい》して便宜《べんぎ》を得たること頗《すこぶ》る多ければなり。
その年|閏《うるう》五月五日、咸臨丸《かんりんまる》は無事《ぶじ》に帰朝《きちょう》し、艦《かん》の浦賀《うらが》に達《たっ》するや、予が家の老僕《ろうぼく》迎《むかい》に来《きた》りし時、先生|老僕《ろうぼく》に向い、吾輩《わがはい》留守中《るすちゅう》江戸において何か珍事《ちんじ》はなきやと。老僕《ろうぼく》額《ひたい》を蹙《しか》め、有《あ》り有り、大変《たいへん》が有りたりという。先生手を挙《あ》げて、そは姑《しば》らく説《と》くを休《や》めよ、我まずこれを言わん、浮浪《ふろう》の壮士《そうし》が御老中《ごろうじゅう》にても暗殺《あんさつ》せしにはあらざる歟《か》と。老僕聞て大に驚《おどろ》き、過《すぐ》る三月三日、桜田《さくらだ》の一条《いちじょう》を語《かた》りければ、一船ここに至りて皆はじめて愕然《がくぜん》たり。
予が新銭座《しんせんざ》の宅《たく》と先生の塾《じゅく》とは咫尺《しせき》にして、先生毎日のごとく出入《しゅつにゅう》せられ何事も打明《うちあ》け談ずるうち、毎《つね》に幕政《ばくせい》の敗頽《はいたい》を嘆《たん》じける。間《ま》もなく先生は幕府|外国方翻訳御用《がいこくかたほんやくごよう》出役《しゅつやく》を命ぜらる。或日、先生、役所よりの帰途《きと》、予が家に立寄《たちよ》り、今日|俸給《ほうきゅう》を受取りたりとて、一歩銀《いちぶぎん》廿五両|包《づつみ》二|個《こ》を手拭《てぬぐい》にくるみて提《さ》げ来られ、予が妻《さい》に示《しめ》し、今日《きょう》貰《もらっ》て来ました、勇気《ゆうき》はこれに在りとて大笑《たいしょう》せられたり。
また或時《あるとき》、市中より何か買物《かいもの》をなして帰《かえ》り掛《が》け、鉛筆《えんぴつ》を借り少時《しばらく》計算《けいさん》せらるると思ううち、アヽ面倒《めんどう》だ面倒だとて鉛筆を抛《なげう》ち去らる。
或日、老僕《ろうぼく》、先生の家に至りしに、二三の来客《らいかく》ありて、座敷《ざしき》の真中に摺鉢《すりばち》に鰯《いわし》のぬたを盛《も》り、側《かたわ》らに貧乏徳利《びんぼうとくり》二ツ三ツありたりとて、大《おおい》にその真率《しんそつ》に驚き、帰りて家人《かじん》に告《つ》げたることあり。
先生は白皙《はくせき》長身《ちょうしん》、一見して皆その偉人《いじん》たるを知る。されば先生は常に袴《はかま》をも着せず、一書生《いちしょせい》の風体《ふうたい》なるにかかわらず、予が家の婢僕等《ひぼくら》皆|尊敬《そんけい》して、呼ぶに先生を以てし、門番《もんばん》、先生を見れば俄《にわ》かに衣を纒《まと》いてその裸体《らたい》を蔽《おお》いて礼《れい》を為《な》せり。
先生の親
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