瘠我慢の説
福沢先生を憶う
木村芥舟

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)木村芥舟《きむらかいしゅう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十六歳の時|咸臨丸《かんりんまる》にて

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「りっしんべん+宛」、第3水準1−84−51]
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 左の一篇は木村芥舟翁《きむらかいしゅうおう》の稿《こう》に係《かか》り、時事新報《じじしんぽう》に掲載《けいさい》したるものなり。その文中、瘠我慢《やせがまん》の説《せつ》に関係《かんけい》するものあるを以て、ここに附記《ふき》す。
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     福沢先生を憶《おも》う

[#地から2字上げ]木村芥舟
 明治三十四年一月廿五日、予《よ》、先生を三田《みた》の邸《やしき》に訪《と》いしは、午後一時頃なり。例《れい》の通り奥《おく》の一間《ひとま》にて先生及び夫人と鼎坐《ていざ》し、寒暄《かんけん》の挨拶《あいさつ》了《おわ》りて先生先ず口を開き、この間《あいだ》、十六歳の時|咸臨丸《かんりんまる》にて御供《おとも》したる人|来《きた》りて夕方まで咄《はな》しましたと、夫人に向《むか》われ、その名は何《なん》とか言いしと。予、夫《そ》れは留蔵《とめぞう》ならんといえば、先生、それそれその森田《もりた》留蔵……それより談《だん》、新旧の事に及ぶうち、予|今朝《こんちょう》の時事新報に出《いで》たる瘠我慢《やせがまん》の説《せつ》に対する評論《ひょうろん》についてと題する一篇に、旧幕政府《きゅうばくせいふ》の内情を詳記《しょうき》したるは、いずれ先生の御話《おはなし》に拠《よ》りたるものなるべし、先生には能《よ》くもかかる機密《きみつ》を御承知《ごしょうち》にて今日までも記憶《きおく》せられたりといえば、先生、いや私が書生仲間《しょせいなかま》には随分《ずいぶん》かようなる事に常々《つねづね》注意《ちゅうい》し、当時の秘密《ひみつ》を探《さぐ》り出し、互に語《かた》り合いたることあり、なお洩《も》れたる事柄《ことがら》も多かるべし、ただ遺憾《いかん》なるは彼《か》の脇屋《わきや》某が屠腹《とふく》を命ぜられたる事を聞き、かかる暴政《ぼうせい》の下に在《あり》ては何時《いつ》いかなる嫌疑《けんぎ》をうけて首を斬《き》られんも知れずと思い、その時|筐中《きょうちゅう》に秘《ひ》し置《おき》たる書類《しょるい》は大抵《たいてい》焼捨《やきすて》ました、今日と成《な》りては惜《お》しき事をしましたと談次《だんじ》、先生|遽《にわ》かに坐《ざ》を起《たち》て椽《えん》の方に出《いで》らる。その挙止《きょし》活溌《かっぱつ》にして少しも病後《びょうご》疲労《ひろう》の体《てい》見えざれば、予《よ》、心の内に先生の健康《けんこう》全く旧《きゅう》に復《ふく》したりと竊《ひそ》かに喜びたり。
 夫人|云《い》わるるよう、この頃|用便《ようべん》が至《いたっ》て近くなりまして、いつもあの通りで困《こま》りますと。やがて先生|座《ざ》に復《ふく》され、予、近日の飲食《いんしょく》御起居《ごききょ》如何《いかん》と問えば、先生、左右《さゆう》の手を両《りょう》の袖《そで》のうちに入れ、御覧《ごらん》の通り衣《きもの》はこの通り何んでも構《かま》いませぬ、食物は魚《さかな》并《ならび》に肉類《にくるい》は一切用いず、蕎麦《そば》もこの頃は止《や》めました、粥《かゆ》と野菜《やさい》少し許《ばか》り、牛乳《ぎゅうにゅう》二合ほどつとめて呑《の》みます、すべて営養上《えいようじょう》の嗜好《しこう》はありませんと。この日、先生|頗《すこぶ》る心《こころ》能《よ》げに喜色《きしょく》眉宇《びう》に溢《あふ》れ、言語も至《いたっ》て明晰《めいせき》にして爽快《そうかい》なりき。
 談《だん》、刻《こく》を移して、予《よ》、暇《いとま》を告げて去らんとすれば、先生|猶《なお》しばしと引留《ひきとめ》られしが、やがて玄関《げんかん》まで送り出られたるぞ、豈《あに》知《し》らんや、これ一生《いっしょう》の永訣《えいけつ》ならんとは。予が辞去《じきょ》の後、先生例の散歩《さんぽ》を試《こころ》みられ、黄昏《こうこん》帰邸《きてい》、初夜《しょや》寝《しん》に就《つか》れんとする際|発病《はつびょう》、終《つい》に起《た》たれず。哀哉《かなしいかな》。
 嗚呼《ああ》、先生は我国の聖人《せいじん》なり。その碩徳《せきとく》偉業《いぎょう》、宇宙に炳琅《へいろう》として内外幾多の新聞|皆《みな》口を極《きわ》め
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