ぢや。わがこがるるはあの響ぢや。白萩はやうおぢやれ、あの響ぢや。あの響ぢや。
伊留満喜三郎 べねぢくちゆす[#「べねぢくちゆす」に傍点]、どみにす[#「どみにす」に傍点]、でゆす[#「でゆす」に傍点]、いすらえる[#「いすらえる」に傍点]。ぜじゆきりすて[#「ぜじゆきりすて」に傍点]。さんたまりや[#「さんたまりや」に傍点]。
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遠き方に、再びかすかに童子等が夕やけの唄。舞台、紅色の靄はやうやう消えゆきて、さびしき青色の光となる。後景の石垣再び鮮かに前に出づ。門内の楽音も亦ややに静まりゆく。忽ち上手に気味わるき人声。
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声 やい、こりや、こりや、喜三郎よ。
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褐色の衣。袴の股立《ももだち》高く取つたる、年老い痩せ屈みたる侍、大刀の柄に手をかけつつ上手より登場。
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老いたる侍 (憤怒の相貌恐ろしく、手も体もうち顫へつつ)やい、喜三郎よ。其方《そち》はよつくもまた此処《ここ》へ来ておぢやつたな。
伊留満喜三郎 (十字架にて眼をかばひながら)や、叔父上か。
老いたる侍 只今|其方《そち》の母御はな……え、思ふだに涙が雫《こぼ》れるわ……其方の不孝をう、怨み、怨み死にに死んでおぢやつたのぢや。
伊留満喜三郎 ええ。母人が死なれたとや。
老いたる侍 不孝者奴!
伊留満喜三郎 (首うなだれ、思ひ沈むこなし、ややありて―独白)この大神の御為めには、母も捨て、妻、子も捨てよと……ええ、聖経にも記されておぢやるわ――叔父上!
老いたる侍 不孝の罪はまだしもあれ、汚《けが》らはしき異国の邪法に迷ひ、剰《あまつ》さへ、猥りに愚人を惑はすとは……
伊留満喜三郎 え、惑はすとな……
老いたる侍 ……不、不、不便《ふびん》ながら其方の命は、父御《ててご》に代りこの叔父が……え、思ひ知れ、天の罰ぢや。
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老いたる侍、忽ち刀を抜いて伊留満の首を落す。四囲《あたり》の人々、皆驚き恐れ『人殺ぢや、人殺ぢや』などいひつつ逃れ去る。沙門等、長順、白萩のみのこる。
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老いたる侍 (刀の血を拭ひ、鞘に納めながら、四下の人は眼にも入らざるが如く、つぶつぶと独語《ひとりご》つ。)……御《ご》、御先祖《ごせんぞ》への申訳ぢや……御、御、御先祖への申訳ぢや……(よろめきつつ再び上手の方より去。)
第一の所化 (一歩前に踏み出し乍ら)やれ、口惜《くちをし》や、南蛮寺の妖術めに化《ばか》されておぢやつたとは。
長順 (夢中に老いたる侍の後を追ひゆきて)お侍、些《ち》と待たれい。
第一の所化 (忽ち長順の領《えり》を捉へて)こや、長順。
長順 離しやれ、そこ離しやれい。
第一の所化 お主《ぬし》は血相かへて何する積りぢやえ。
長順 ふむ、何を隠さう――徒《いたづ》らに俗世間の義理人情に囚へられ、新しき教の心もえ覚《さと》らぬ俗人|原《ばら》、あの老耄の痩首|丁切《ちよんぎ》り、吉利支丹宗へわが入門の手土産《てみやげ》にな致さむ所存。
第一の所化 何と、吉利支丹へ入門とな。
長順 新しき不可思議を某《それがし》は望むのぢや。
第一の所化 やあい、同学衆よ。長順が吉利支丹へ改宗ぢやと申し居るわ。
所化等 え、邪宗へ改宗ぢやてや。
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再び門内に楽声。あこがるるが如きろまんちつしゆ[#「ろまんちつしゆ」に傍点]の曲節。
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長順 おおあの声にあくがるるのぢや。
乗円 (痛ましき顔容をなして)長順!(長順眼差を落す。)
学頭 如何に方々、長順が堕落の程はもはや一毫の疑も容《い》れぬ所ぢや。容捨は無用ぢや。棒を与へよ。
第一の所化 長順今ぞ思ひ知れ!(杖を以て打たむとす。)
乗円 (之を遮りて)ま、ま、待たれい、方々、第一の笞《しもと》はこの乗円に任されよ。――やよ、長順。煩悩六根の為めに妨げられたる其方《そち》の心では、わが言《こと》はえ分るまいが、古き法類ぢや、少時《しばし》わがいふことを聞かれよ。其方とわれとはふとしたる奇縁により、兄弟も及ばざる交を結びたりしが、かの時誓ひし言の葉は、まだえ忘れは致すまいがな。
長順 ふつ。
乗円 大恩教王の御教は日月輪《にちぐわつりん》の如く明かれども、波羅密多《はらみた》の岸は遠く、鈍根痴愚の我等風情に求道の道は中々の難渋、それ故に互に諫《いさ》め励まし、過あれば戒め懲《こ》らし、よしや歩《あゆみ》は遅からうとも、いやさ精進懈怠《しやうじんけたい》はあるまいと、誓ひし言葉を覚えて居やるか。

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