順 如何にも忘れは致さないが……
乗円 さらば長順。無慙なれども其方《そなた》が止観を曇らする邪見の源を断ち呉れむず。南無阿弥陀仏。(右手にて腰なる如意を取り、長順の額を打つ。)護法の笞《しもと》、斬魔の剣ぢや。
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所化等『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と唱へ乍ら、杖を以て長順を打つ。舞妓白萩をろをろとして之をかばふ。長順倒る。やがて沙門の一行、列をなして上手の方に退く。
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第一の所化 (長順を顧みつつ)やい、長順、荘厳光明の究竟道《くきやうだう》、般若波羅密多には行きもせえで、女人《によにん》の袖に隠るるとは、はて、さて、お主《ぬし》たちに善う似合うた邪宗門の勤行よな。
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衆僧列をなし徐《おもむ》ろに上手より去らむとす。
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学頭 白衆等聴説《はくしゆうとうちやうせつ》、黄昏無常偈《くわうこんぶしやうけい》。
所化等 此日己過《しじつきくわ》、命即衰減《べいせきすゐげん》、如少水魚《じよせうすゐぎよ》、斯有何楽《しいうからく》。
長順 (傷に呻きながら後へより衆僧に呼びかく。)やよ、人々。などて、徒《いたづら》に古人の教に着《ちやく》しておぢやるのぢや。此不思議を見ざるか。この不可思議を。
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門内の悲しき楽音に交はりて小鐘声。
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所化等 諸衆等、当勤精進《たうきんせいしん》、如救頭燃《じよきうとうてん》、但念苦空《たんでんくこう》、無常勤慎《ぶしやうきんしん》、莫放逸《ばくはういつ》。
長順 (蹌踉《よろめ》きながら立ち上りて、南蛮寺の門扉に至り倚る。)おお、この不可思議に酔はいで、何の妙、実相がおぢやらうものか。心の底に生まるる赤児の声は、いつもこの不可思議にこがれて泣くのぢや。
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所化等のうち、或は首を回《めぐ》らして長順を顧るものあり。
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学頭 (所化等に)天魔波旬の誘惑《まどはし》に、方々は心を労すると見ゆるな。
長順 新なる不可思議の泉にあこがれて泣くのぢや。(倒る)
学頭 衆生無辺誓願度《しゆじやうむへんせいぐわんど》、煩悩無辺誓願断、法門無尽誓願知、無上菩薩誓願証。
所化等 南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。(沙門等|悉《ことごと》く上手より去。)
白萩 源さま。――あれ源さまとしたことが、もう声は聞こえぬさうな。まをし源さま。源さまいのう。
長順 (立ち上らむとする如くにして、また倒れ伏す。)おお、この不可思議にこがるるわ、不可思議にこがるるわ。(声次第に弱る。)
白萩 あれ、源さま。まだ言葉は聞こえるかいのう。源さま。源さま。
長順 (細く目を見開き)お鶴どのか。
白萩 (泣き伏しながら)あい、鶴ぢやわいのう。
長順 やよ、お鶴どの。四辺《あたり》に人は見えぬかいな。
白萩 (四下を見廻して)いやいや、誰も見えぬわいな。今宵は月も出ぬさうな。
長順 やよ、お鶴どの。もそつと近《ちか》う其方《そなた》の耳を貸しや。
白萩 あい。
長順 (言葉を改めて)やよ、鶴。昔|其方《そなた》に恋ひこがれた、あの時の心がいとしいわい、あの時あの恋がかなうたなら、何も不可思議は欲しうは無かつたのぢや。(長順瞑目す)
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門内の鐘声、小鐘声を以て終る。
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[#地から2字上げ]幕
[#地から2字上げ](明治四十二年二月)



底本:「現代日本文學大系 25 与謝野寛・与謝野晶子・上田敏・木下杢太郎・吉井勇・小山内薫・長田秀雄・平出修 集」筑摩書房
   1970(昭和45)年4月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第13刷発行
※底本に見る送り仮名の不統一は、ママとした。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:福岡茂雄
校正:松永正敏
1998年6月28日公開
2006年3月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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